物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

湯川秀樹 戦中から戦後へ

2018-07-31 11:59:20 | 日記

「湯川秀樹 戦中から戦後へ」という小沼通二さんのエッセイが岩波の『図書』8月号に出ていた。世界連邦とかパグウォッシュ会議に連なる湯川の思想が1945年の八月以降に形成されたという判断を小沼さんは下している。

『図書』を購読していない人は図書館かどこかで一度読まれたらいいと思う。これは湯川の研究室日誌とかが京都大学基礎物理学研究所の湯川のア―カイブArchiveに公表されたのを機に書かれたエッセイらしい。

新聞等のマスコミへの会見が数か月前にあったようだが、詳しいことは知らない。このときの会見をした人が小沼さんであった。


(2024.4.4付記)
小沼さんは、古くからの知人である。小沼さんは堀源一郎さんと私のことを雑誌「パリティ」でハミルトンの切手を紹介されたときに古い友人と言ってくださってはいたが。

堀さんと私は共に、年は隔ててではあるが、海鳴社から四元数の本を出したといういきさつがある。堀源一郎『ハミルトンと四元数』(海鳴社、2007)と私の『四元数の発見』(海鳴社、2014)である。

小沼さんは新制の東京大学の物理学科1期生で、堀さんは天文学科の一期生で同期であったと伺ったような気がするが、記憶は確かではない。

海鳴社の社長だった辻信行さんは先年惜しくも亡くなられたが、私の本を出版するときに「四元数なら、海鳴社と言われるようになりたい」とおっしゃっておられた。「その意気やよし」とそのとき思ったものである。




角谷静夫という数学者

2018-07-31 11:19:10 | 日記

は日米の戦争が始まる直前にプリンストンの高級研究所に招聘された数学者であるということは知られているが、その角谷という人がどういう人なのかは知らなかった。もちろんいまでもよくは知らないのだが、角谷静夫の大阪大学誌上懇談会とかいう記事が、角谷静夫関連のあるサイトにでているということをある方が教えてくれた。

ちらっとそのサイトを読んだだけだが、彼は旧制の甲南高校では文系のコースだったが、東北大学の数学科を卒業して、大阪大学に勤めるようになった。

そのころにプリンストンの高級研究所に招聘されたらしい。ところが日米の戦争が始まってしまう。1942年の日米交換船で日本に帰ってくる。

戦後すぐにまたアメリカに招聘される。これは湯川秀樹の1949の招聘よりも先だったというから、どれくらい評価されていたかがわかる。

最近、数学者のワイルだか、誰だったか名前は忘れたが、日本に来て「私は偉大な数学者である」と日本語で言ったのでそれを聞いた人がびっくりしたという話が出ていた。これは角谷にその日本語表現を教わったという。

文系から転向して理系になった学者として有名なのは電子の波動説を唱えたL. de Broglieである。彼は歴史を専攻していたとか聞いたことがある。彼の兄のM. de Broglieが実験物理学者であったから新しい物理学の様子を聞いていて、関心をもったらしい。

私が学生のころに、兄のM. de Broglieの死去の報が新聞に出ていたので、「de Broglieがなくなったらしいですね」と研究室で言ったら、「de Broglieはまだ生きていて論文を書いているよ」とSさんが教えてくれた。おかしいなと思ったら亡くなったのはLouiの兄のほうだった。ということを知ったのはだいぶん後になってであったが。