物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ボールが転がると

2012-08-15 13:54:52 | 日記・エッセイ・コラム

ボールと戯れている、猫は普段は怠惰な猫であっても、ボールが転がるとそれを追いかける。

それと同じように「日常生活ではよぼよぼ歩いていても、テニスコートに来たら、ボールを追いかけるだろう」とはテニス仲間の I さんが冗談交じりに、かつ、半ば本気で先日そう言っていた。

この類推がおもしろくて笑ってしまったが、それはいまの私は近い。普段の生活で走ることはもちろん、飛び跳ねることもない。昨夜はお盆の中日であったが、やはり私たちのテニス仲間は私も含めて9人が集まった。

いつもは参加できないMさんもお盆でお休みというので、久しぶりに来られた。T 市の市営のテニスコートを借りているので、年末と年始のときには施設が閉鎖されるので、使えないが、それ以外には雨天とかの都合でコートが使えないときを除いて誰か仲間の人がテニスをしている。

さすがに昨夜は私たちのクラブ以外には誰も8時過ぎまでコートを使っていなかった。だが、火曜の夜となれば、ひょっこりとやってきても誰かがテニスをしているので、絶対にテニスができるというわけである。

この習慣はもともと私の妻がテニスクラブ「ひまわり」を主宰し出したころからの伝統である。もう5,6年前に妻がその運営から手を引いて、運営の主体はSさんに移った。

Sさんがコートの借用の手続きをしたり、会員の連絡をしたりと組織をしている。私の役目は会費の徴収と保管、ボールの保管と新しいボールの購入等である。コートの予約を雨天等でキャンセルするかどうかの権限というか義務も負っている。

月の会費は2,000円であり、それ以外に不定期に来る人は1回500円の参加費を払えばよい。もっともある程度メンバーとのなじみがないと続けてくることは難しいらしい。それでもある程度テニスのボールが打てる人たちが毎回7,8人は集まるというのは有難いことである。


板ばさみ

2012-08-14 13:04:50 | 日記・エッセイ・コラム

ある著名な方に講演に来てほしいと愛媛県の5.3憲法集会の実行準備委員会が言っている。それはいいのだが、前にも依頼をして断られたといういきさつがある。

彼は著名であり、かつ超多忙である。数年前に彼は天皇の主催の園遊会に招待されて、天皇から「多忙になったでしょう」と声をかけられて、「いや、陛下ほどではないです」と答えた人である。

その人に今度は5.3憲法集会の実行準備委員会がまた5月3日の講演に来てもらうための何年か後の予約をしたいと言い出した。とても交渉は大変なので断って、誰か他の人に交渉を頼んで下さいと言ったのだが、他に伝手がないという。

しかし、昨年か一昨年に断られたのだから再交渉は気が引けてしかたがない。とても来てくれるような状況にないのだから、無理だとわかっている。

だが、知り合いに交渉を頼まれるとなかなか嫌だと言えない。自分の性格の優柔不断さに少し嫌気がさしている。


伊藤穣一さん

2012-08-13 14:35:28 | デジタル・インターネット

TEDカンファランスをスーパープレゼンという題で紹介している、伊藤穣一さんはテレビで自分のことをJyo Itoと言っていると思っていた。

が、インターネットで見るとJoi(カタ仮名書きすれば、ジョイか)と言っているらしいことがわかった。彼の実際に言っている発音を音で聞いて正確に聞けているかどうかは私にはわからない(注)。

Joiと文字で書くと、フランス語を少し学んだ私などはジョワと発音しそうである。oiと書くと普通フランス語ではワと発音するというのは鉄則であるから。だから、Jyoの方がいいような気がするが、本当のところはどうなんだろうか。

人の名前の発音などどうでもいいように思うが、ちょっと気になった。

伊藤さんはベンチャー企業家としても知られているが、アメリカの大学で物理をも学んだ方らしい。長いアメリカ生活で英語を日本語と同様に話す人らしい。これは彼が少年時代を十年の長きにわたってアメリカに住んだことにもよるらしい。

その上でまたアメリカの大学で学んだのだから、英語は自由自在なのは当然であるらしい。いろいろな人が日本人のいるということである。

そういえば、私の知り合いにも10年近くアメリカに住んでいたので、英語の方が文章や話すのに困らないという人がいる。

(2013.1.23 付記) (注) その後、このNHKの教育テレビのスーパープレゼンの放送のはじまりの表紙のところで、伊藤穣一 Joi Itoとローマ字で入るようになった。これは私のようにJyoと聞く人がいるからなのであろう。なんとも親切なことである。


閑話休題

2012-08-13 12:04:37 | 日記・エッセイ・コラム

閑話休題とはどういう意味である知らなかった。知らなかったとはいえ、およその意味はわかっていたつもりだったが、どうもそうではなかったらしい。

昨日の朝日新聞の書評に「昆虫食大全」とかなんとかいう書の書評があり、それを多芸多才の人、山形浩生が書いていた。今日の主眼はその書評そのものではない。

彼の書評の中に、閑話休題という語が使われていた。この語は若いときから何回も書かれているのを読んできた。だが、その正確な意味を知らなかった。ということで、日曜日でもあり、一人で暇にしているので、新明解国語辞典であたってみた。

閑話休題という語は文頭にしか使わないということをはじめて知った。話の本筋でないところから本題に返すというというときに使うという。だから、「さて、本題にかえって」という意味らしい。

何年日本語を使ってきたのだろうか、私はそういうことも知らないで。昨日は妻もいなかったので、昼下がりに昼寝もしたが、通奏低音と閑話休題という語を辞書で調べたという収穫があった。

山形浩生は私の旧知の山本義隆氏の予備校での教え子らしい。これはかなり以前に山形氏が山本さんの書を書評していたときだったかに本人が書いていた。

私の子どもによれば、山形氏は不思議な人らしく、経済の本だかを翻訳したりもしているらしい。東京大学土木工学科かの何かの出身らしく、どこかの会社に勤めているらしいが、むしろ評論家として知られており、特異な才能の持ち主らしい。氏の活躍を祈る。


フランクル「夜と霧」

2012-08-11 12:35:24 | テレビ番組

NHKの「100分で名著」でピ-ター・フランクルの「夜と霧」を取り上げていた。フランクルは精神医学者だったと思うが、ユダヤ人で強制収容所の生き残りである。

その第2部の放送を私は見たのだが、「人が人生の意義を見出すのではなく、人生の方がその人を待っている」というようなことを言って、同じ強制収容所にいた、二人の人が絶望の縁にいて自殺を考えていたのを救ったという。

ところが、私には人生の方がお前を待っていると言われてもそれが何を意味するかわからない。お前のやりたいことでし残したことがあるだろうとか、生き延びたら、お前の家族がどこかで待っているだろうというのなら、わからないでもないのだが、「人生がお前を待っている」とはどういうことなのか。

番組ではそういう突っ込みを入れる人がいなかったが、知りたいところであった。あまりに衒学的なものいいではないのか。どうも私はピーター・フランクルにつっかかるようなところがある。

フランクルの「夜と霧」で人間というものの奥深さを見せられたのは、収容所でパンが足りないときに自分の分を分け与える人がいたということをフランクルが書いているのを読んで、人間はぎりぎりのときにでも人のために尽くす人が存在するのだというのを読んだときである。

そういう崇高な感覚は残念ながら、私にはもてそうにない。

いつだったかこのブログでもフランクルに突っかかるような記述をした覚えがある。はしたないこととは思うが、私にはそういうところがあり、大人になれない。

人生の意義を見つけることなどできはしない。そういうものは人生を何年生きていてもわかるものではない。そう考えている。だが、自分のしておきたいことはある。それをこれからの人生である程度でもすることができるかどうかわからないけれども。


今治西高校、今年も初戦敗退

2012-08-10 12:44:11 | スポーツ

今西のOBとしては、別に喜んでこんなブログを書いているわけではない。その点を誤解をして頂かないことを願っている。

それにしても相手の投手がすごすぎた。それもまだ2年生というからすごい。三振22個は甲子園の高校野球としては最高記録なのだそうである。

いままでは一試合の三振奪取の最高記録は19だったそうであるが、それを3つも越してしまった。NHKのニュースでやっていたくらいだからすごいことなのであろう。

一試合で最短だと27人でアウトになるが、そのうちの22人を三振にとったというのだからすごい。たった5人だけが三振を免れたことになる。

見逃しの三振もあったが、空振りが多かったように思う。バッターとしては攻めのバッティングであるから、仕方がない。外角に落ちるボールにひっかかっていた。

このような落ちるボールに対処する方法がないのか、あるいはあるのかは知らない。バッターとしてはボールが来たと思ってバットを振ったら、そのボールが消えたという感じであろうか。

12回かの甲子園への出場回数を誇る今治西高校野球部にしてはかなりのダメージである。もっとも選手も監督やコーチも卑下することはない。堂々と負けを認めて再出発をすればいいのである。

スポーツはスポーツであって、命をとられる訳ではない。敗者としての振る舞いを潔くすることだ。


並進演算子

2012-08-09 12:52:20 | 物理学

四元数のことを調べていて、この並進演算子に出会った。などというと物理学者の偉い先生方にお前はいままで何を勉強していたんだといわれそうである。

それをもちろん知らなかった訳ではない。もう50年くらい前に4年生になって研究室に配属になって受けたSchiffの量子力学の購読で、最初のころの購読の際にチューターをしてくれたOさんに教わったと思う。

それが何の機会にであったかは忘れたが、教わったことを覚えている。そしてそのノートの紙片を長い間この本の当該箇所にはさんでいた。

数年前にその紙片をどこかに片付けたのだが、どこに片付けたか最近探してもわからない。ということでその並進演算子が本当に並進演算になっていることを確かめる必要を感じるようになった。

それで、はじめて自分で考えて見なくてはならなくなった。Taylor展開を使うはずだが、その証明がはじめうまくいかなかった。2日目になってやっと都合のいいTaylor展開の表示をやっと思いつき、並進演算子が並進を起こしていることを確かめた。

いままでこういう作業をやったことが私が一度もなかったのか、それとも一度ならずそういうことはやったことがあるのかはすぐになんでも忘れてしまうのでわからない。しかし、やっと意識的にこの証明をしたと感じたので短いエッセイにまとめておいた。

こんなことは物理とか数学の専門家にいうと恥ずかしいことなので、発表するとしてもあまり数学とか物理とかの専門家の目に触れるところにはしたくない。

(2018.2.20付記) こう書きながら、「数学・物理通信」3巻2号に発表してある。関心のある人はインターネットで検索をしてみてください。

役に立つかもしれません。

 


宿題

2012-08-08 11:02:13 | 受験・学校

夏休みに日本では宿題があるのが普通であるが、ヨーロッパでは夏休みには学校でも宿題がなく、休暇を存分に楽しむという。

母親が日本人で父親がドイツ人の方がNHKのラジオドイツ語講座のゲストであるが、いつだったか日本では宿題を出されて嫌になったと言われていた。その気持ちはよくわかる。

ところが、先日ドイツ語教室のドイツ人R氏から、8月15日までに提出せよと宿題を出された。まったく課題を見ていないが、クラスで学習熱心なOさんや I さんならば、熱心に宿題をするのだろうなと思ったが、私はまったくやる気がない。

Ich habe keine Lust, die Hausaufgabe zu machen.

である。それは私にはこの夏休み中にやらなければならないことがたくさんあるからである。

自分の仕事も二つほどあるのだが、本来は自分の仕事ではないもので、私が少なくとも手を貸さないとまとまらないと思われるものがいくつかある。

どうもそこら辺りが非情になれないというか、でしゃばりというかなのである。これらは放っておいてもいいものもあるかもしれないが、それも惜しいと考えるといけない。

数学・物理通信はもともとlatexで入力した原稿を受けつけており、それ以外は受けつけない。これが原則ではあるが、いろいろな都合でそうもいかなくなり、普通のワードで投稿された原稿でもそれをlatexに入力しなおして、掲載したことがあり、そういう必要がいまでもある。

世の中にはもちろんlatexを自由自在に扱う人もいるが、latexをまったく使えない人も物理屋さんもおられるのである。だが、それらの人が考えたことを少しでも生かしたいと思うと編集人として自分の仕事ではないものも引き受けなければならない。

妻は自分がそんなことで壊れてしまわないようにと忠告をしてくれるが、さてどうしたものか。


rings and uneven bars

2012-08-07 11:25:05 | 外国語

rings and uneven bars、これらは吊り輪と段違い平行棒らしい。少しづつ専門用語を手に入れている。

まあ、しかしオリンピックが終わるまでに体操の種類のすべての英語の言い方を知ることができるだろうか。それそれ体操も終わりである。

それはともかく今回のロンドンオリンピックは柔道の日本の惨敗を受けて、水泳での意外な健闘であり、その他の競技での日本人の意外な(といっては申し訳がないが)な活躍である。

それはフェンシング、サッカー、アーチェリーや卓球等での健闘である。日本全体でいうと結構バランスがとれているというべきか。普通にはあまり注目を浴びない種目の選手が健闘している。

柔道はもう日本がメダルをとるというよりもむしろ世界の選手たちにメダルをとらすような世界のスポーツにまで成長したということで結構なのではなかろうか。

始まったころはあまり放送を見るつもりがなかったのだが、それでも結構な時間をオリンピックの競技を見ている。これは他の放送が少ないということもあるかもしれないが、しかたがないであろう。


Vault and pommel horse

2012-08-06 12:41:21 | スポーツ

いまロンドンでオリンピックである。

昨夜、テレビの女子体操の中継を見ていたら、Vaultという字に目が行った。ところがこのVaultなどという語は知らなかったので、座っていた机の上にある英和辞典を引いてみたら、跳躍とあった。

すなわち、体操競技の跳馬のことであった。そして続いてみていたら、pommel horseというのがあった。pommeなら知っているが、pommel というのは知らない。それでまた辞書を引いてみたら、馬の鞍の前の方の飛び出した部分のことをいうらしい。

それで、これが体操の鞍馬を意味することがわかった。放送の中で解説者が馬の鞍の飛び出したふちのところをpommelというのだと解説をされていた。そういえば、体操競技の鞍馬には二つの金具というのか取っ手というのかがある。これは本当の馬の鞍のpommelを模したものであろう。

ということで、テビを見ていて少し賢くなったのだが、徒手体操だとか吊り輪だとか鉄棒だとかは英語ではなんというのだろうか。

ちなみにpommeはフランス語でりんごのことであり、pomme de terreとは「地のりんご」すなわちジャガイモのことである。


いじめ2

2012-08-06 11:34:18 | インポート

朝日新聞の連載企画「いじめられている君へ」で昨日漫画家の西原(さいばら)理恵子さんが、いじめられている君は自分を守るために「うそをついてください」とあった。

うその大切さが強調されており、我が意を得たという感じである。はじめて、いじめられている少年少女への貴重なアドバイスが得られたと感じた。

西原さんの亡くなった夫は戦場カメラマンであったそうだが、少年兵から銃を突きつけられたときが一番恐かったと言っていたという。大人の兵士は残酷な兵士でも、家に帰ったらやさしいお父さんにもなる。愛することや大事なものを知っている。

だが、少年兵は物事の重大さがわからず、簡単に人を殺すんだって、言っていたという。

いくら紛争地帯でも、年間3万人も死ぬなんてことはそんなにないが、日本ではそれに相当した人が自殺をしている。日本は形を変えた戦場だと西原さんはいう。

なんて本質を見通した発言なんだろう。西原さんがどんなマンガを描く人かまったく知らないが、この人は本質を知っている。

西原さんのいじめに対するアドバイスはまず何とかして「16歳まで生き延びてください」。16歳まで生き延びることができれば、そこからは今まで見えてこなかったことやいろいろの可能性があるという。

こんなことを大人が言わなくてはならないとは悲しいが、でも具体的で実際に使える優れたアドバイスである。

弱い者から「うそをつく権利を奪ってはならない」ことを主張したのは物理学者の武谷三男である。権力者のうそはきびしく監視しなければならないし、私たちは権力者のうそを見抜く力を養わなければならないが、その一方で弱い者から、うそをつく権利を奪ってはならない。

それが武谷の主張であった。権力者は簡単にうそをつくがそれをなかなか認めないし、その責任をとることはまたほとんどない。


MRI

2012-08-03 12:02:54 | 健康・病気

来週の月曜日にMRIを受けることになった。今日医師にすぐ「閉所恐怖症はないですね」と聞かれたが、残念ながら私は閉所恐怖症である。

押入れの中はどうですかと聞かれたが、そんなところが我慢できるようだったら、閉所恐怖症ではない。4畳半はどうですかと聞かれたが、4畳半は問題がない。しかし、それでも小さな茶室のようなところだとやはり苦手である。飛行機の窓際の席が苦手なくらいであるから。

それで、鎮静剤を投与してくださいと頼んだら、では錠剤の鎮静剤を飲むことにしましょうと言われた。だから、そのためにMRIの検査の30分くらい前に病院に来ることになった。

このMRI検査は右腕、右手の痺れの原因を精査するためである。それが特定されたら、うまくしびれの原因をとることができるのかどうかはわからない。多分そんなに簡単にはしびれを解消することはできないだろう。

それにこれからの私の人生としては適当に右腕の痺れと共存して生きていくことも考えなくてはならない。そう考えている。


健康を金に換算すると

2012-08-02 11:06:16 | 日記・エッセイ・コラム

右手・右腕がしびれたり、重かったりして調子がもう一つである。

先週の金曜日に整形外科に行って、首の骨のレントゲン写真を撮ったり、手首の写真をとったりした。右肩が痛く火曜日の夜にテニスには行くものの、どうもうまく行かない。

もっともテニスはどこも悪くないときにもつまらないミスを繰り返す方だから、これは除外してもいいだろう。だが、右手でパソコンのマウスを操作することができなくなれば、数学・物理通信の発行には頓挫を来たすかもしれない。

それで考えたのである。

私の右手・右腕の障害がひどくなければ、数学・物理通信の発行にほとんど支障がない。ところが、右手・右腕の障害がひどくなって私が編集ができないことになると、誰も代わって編集をしてくれる人はいない。共同編集者のNさんがいるけれども、彼は病気で身体の自由が利きにくく、編集などできない。

それでもし編集と発行の仕事を外注することになると投稿者とか読者から経費を徴収することなどできないから、自分の負担で発行するということになるが、それはどのくらいの経費で請け負ってもらえるのだろう。

数学・物理通信の編集と発行を外注するとなると結構の費用がかかるのではないだろうか。1回1万円の費用がかかるとすれば、いままでに1巻11号と2巻3号を発行したのだが、24万円の費用がかかったことになる。それだけの費用を出して、では発行を個人的に続けられただろうか。

個人的には無理だろうというのが、率直な思いである。また、実際に1回一万円で請け負ってくれる、会社または個人がいたかどうか。それはなかなか難しかったのではないか。

数学・物理通信の発行は私の行っている文化事業の一つだから、別に誰かから経費を出してもらいたいと思っているわけではない。だが、ひとえに自分の健康にすべてはかかっているということを知った。

妻は私に「自分が壊れてしまわないように」と常々言っている。まさにその通りである。

(注) 1回の発行を1万円と見積もったのはかなり過小評価したつもりである。多分実際には1回1万円で請け負ってくれる個人とか会社はないと思う。そうだとすると、現実には自分の体がいうことがきかなくなると発行はできなくなる。

もっとも「数学・物理通信」を続けて発行しているから、世の中がよくなるなどということはまったくない。だから、客観的にいえば、あってもなくてもいいような媒体ではある。だが、個人としては意味があると思ってやっている。

そこらあたりが、まったくの部外者が見たら、かなりおかしな感覚の持ち主で私はあるかもしれないが、当事者としては意義を感じている。

この機会にここで宣伝をさせてもらうと、インターネットの検索で「数学・物理通信」と入力して探せば、数学・物理通信のバックナンバーにすぐたどり着くことができる。

この際に彼のサイトにリンクをしてくださっている、名古屋大学の谷村省吾さんに改めて彼の尽力に感謝を述べておきたい。


帽子

2012-08-01 13:01:15 | 日記・エッセイ・コラム

岩波書店のPR誌「図書」の8月号に細川哲士さんの「王と農夫」というエッセイがあり、おもしろかった。

その話のキーは帽子である。

アンリ4世があるとき、農夫にあった。その農夫はどうやって王様を見分けたらいいのかと王様に尋ねた。すると王様は取り巻きが帽子を脱いだときにそのままでいるのが王様だよと答えて、臣下のところへ帰ると一同が脱帽する。それで農夫が叫ぶ。王様はあんたか私だ。帽子をかぶっているのは私とあんたの二人しかいないから。

これは笑い話であるから、そういうことは実際には起こらない。ところで話はこの冒頭の笑い話をしたいためではない。

西ヨーロッパでは帽子をかぶることがかつて一般化していたという話なのである。ブリューゲルの絵に出てくる人は首を切られた罪人とかを除いて、みんな帽子をかぶっているという。

それであわてて、私のもっている、ブリューゲルの「狩人の帰宅」という絵の複製を見に行ったら、やはりみんな帽子をかぶっている。

「狩人の帰宅」では、帰って来た狩人はもちろん帽子をかぶっており、近くの池の上に張った氷の上で遊んでいる、子どもとか大人を見たら、これは絵の人物が小さくて判別がし難いが、帽子をかぶっているか、コートのフードをかぶっているらしい。

この「狩人の帰宅」は絵の裏に英語でhunters in the snow と題がついているが、ドイツ語ではHeimkehr von J"ager(狩人の帰宅)とかいう題がついていたと思う。

それはともかくとして、乞食ですら帽子をかぶっているという、観察をエッセイの著者の細川さんはしている。それも特別の帽子だそうである。

それでその帽子をどうやって手に入れるのかと細川さんの考えは進んで行く。そして、乞食には公認の、言い換えれば、堂々とした公認の乞食と非公認の乞食とがあるという。

公認の乞食は帰る家のある乞食であり、非公認の乞食は帰る家のない乞食であるとか。

現在では乞食は住所不定という概念が一般的になり、SDF=sans domicile fixe(サン ドミシール フィクセ:決まった住居のない)といわれるようになったという。

このブログは細川さんのエッセイの要約ではまったくないので、そのエッセイの雰囲気の何分の一かでも伝えられればいい。詳しくは細川さんのエッセイを読んでください。もっとおもしろいことがたくさん書いてある。