愛国者 「武谷三男」などと書けば、泉下で武谷が笑っているかもしれない。世の中も変わったものだと。
これはもちろん、いわゆる右翼的な意味での愛国者という意味ではない。
しかし、7月の終りだか8月の始めだかにNHKが放映した「日本人はなにも目指してきたか」シリーズ第1回の「科学者は発言する」(湯川秀樹と武谷三男)の回にあるアメリカの科学者が原爆反対の運動をセーブする目的で湯川と武谷に個別に面談した後の記録についての報告に出てきた。
武谷はマルクス主義の信条をもった学者であることを承知の上で彼は武谷に会ったのだが、武谷が日本国を愛する愛国者であることを発見したと記録に残っていた。
この愛国者の意味は狭い意味での右翼の天皇至上主義の愛国者の意味ではないが、アメリカの科学者の記憶に残るくらいには日本の国を愛する人であったということだろう。
この記事を書く動機となった事実はしかしこのことではない。
昨夜、物理学会誌9月号が届いたので、見ていたら稲村卓さんが長岡半太郎の提唱した原子模型は、断じて土星型の原子模型ではないということを述べた記事があった。
長岡の原子模型は土星型の原子模型という評価を下したのはどうも稲村さんの調べたところでは『長岡半太郎伝』(朝日新聞社、1973)であるらしい。
彼の原子模型に関する主要執筆者であった、八木江里氏を「愛国心がない」と武谷が叱ったというエピソードが出ていた。この事実は稲村さんが八木さんからの私信で得た事実らしい。
どこの国でも自国の人の業績を称揚して、他国の人の同様な業績を無視または軽視する傾向がある。
だが、長岡が亡くなって20年近く時間が経って、客観的に評価したとする長岡の評伝で、彼の意図しない意味に自国でさえ考えられているとすると果たしてそれでいいのだろうか。
「長岡・ラザフォード・ボーア模型のすすめ」と題するこのエッセイはそういうことを考えさせてくれたと同時に、期せずして武谷三男の愛国心の発露を一端を見た。