物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

漱石の『坊ちゃん』の文庫解説

2014-09-02 11:30:35 | 本と雑誌

岩波のPR誌『図書』の8月号から文芸評論家斎藤美奈子さんの「文庫解説を読む」がはじまった。

たまたま9月号は漱石の『坊ちゃん』のいくつかの文庫解説を読んで解説をしてくれている。

新潮文庫の解説をしているのは、江藤淳であり、その主張は一見勝者とみえる坊ちゃんと山嵐は実は敗者に他ならないという。

坊ちゃんは元旗本だし、山嵐は朝敵の汚名を着せられた「会津」の出身である。

岩波文庫の解説者は平岡敏夫であり、坊ちゃんは清の死の悲しみが消えぬうちに語り始めているとか、父母にも兄にも愛されなかった子ども時代とかもあり、「おれ」は孤独で孤立しているという。

そしてきわめつけは「明治維新以後、薩長は藩閥政府に冷遇され、(中略)ひとしく体制に対する反逆という文脈のなかで、『坊ちゃん』を読むことができる」

これらは悲劇としての『坊ちゃん』である。

小学館文庫の夏川草介の解説では『『坊ちゃん』が敗者の文学であることを認めつつ、(中略)坊ちゃんが背を向けた松山を<坊ちゃんと一緒になって「不浄の地」と笑うことは読者の側にはゆるされない>(中略)「この不浄の地」こそが我々が住む現実世界だからだ。<我々は坊ちゃんとともに松山を去るのではない/岸壁に経って、去りゆく坊ちゃんを見送る側なのである>』という。

ほかにも正義を巡る議論もあるが、ここで披露したいのはそれではない。

湯川秀樹博士がまだご健在だったころにひょっとした機会に、伺ったことのある漱石の『坊ちゃん』評である。

彼はいう。『坊ちゃん』は中央の地方蔑視の典型であり、あの小説を松山の人が喜んでいいわけがない。

この発言を聞いたのは1968年のことで博士の晩年ではあったろうが、これほど独特の意見を聞いたことはそれまでなかったので、とても記憶に残った。

そのときには私はすでに松山の大学に勤めることが決まっていたが、創造的な仕事をできる研究者の考えの一端を垣間見た気がした。


居眠り

2014-09-02 10:59:54 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、テレビを見ていたら知らぬ間に居眠りしてしまった。

最近は頭を使うことが多いのか、爆睡してしまうことが多い。

それで思い出したのは世界的に天才数学者といわれた岡潔さんが書かれていたことである。

岡先生が取り組んでいた、多変数関数論の問題は並みの難問ではなく、世界で誰も解けなかったような難問だった(らしい)。

それでもずっと数か月とか数年とか考え続けていたら、考え出すといつもすぐに眠くなって寝てしまうのだという。

ところがそうやって数ヵ月か数年が過ぎると、ぼんやりと解決の方法が見えてくるという。

私の『数学・物理通信』の編集作業は残念ながら岡先生が取り組んでいたような難問ではなく、誰でもできるような作業にしかすぎないので、比較することがそもそもおこがましい。

だが、そうではあるが、なかなか編集作業でのエラーがなくならないので、私なりにああでもないこうでもないとここ数日間、頭を使ったという点では同じである。

latexの編集ではエラーメッセージが出るけれども、なかなかその意味がわからない。ある程度経験を積んでくるとそのエラーが出ても時間が経てば、何とか解決できるだろうと思えてくる。

その具合が悪い箇所がよくわからないというのが、いちばん大変なのである。

そして事実数日すれば、なんとか解決するのが普通である。だが、それが解決しない数日間は苦しい。