岩波のPR誌『図書』の8月号から文芸評論家斎藤美奈子さんの「文庫解説を読む」がはじまった。
たまたま9月号は漱石の『坊ちゃん』のいくつかの文庫解説を読んで解説をしてくれている。
新潮文庫の解説をしているのは、江藤淳であり、その主張は一見勝者とみえる坊ちゃんと山嵐は実は敗者に他ならないという。
坊ちゃんは元旗本だし、山嵐は朝敵の汚名を着せられた「会津」の出身である。
岩波文庫の解説者は平岡敏夫であり、坊ちゃんは清の死の悲しみが消えぬうちに語り始めているとか、父母にも兄にも愛されなかった子ども時代とかもあり、「おれ」は孤独で孤立しているという。
そしてきわめつけは「明治維新以後、薩長は藩閥政府に冷遇され、(中略)ひとしく体制に対する反逆という文脈のなかで、『坊ちゃん』を読むことができる」
これらは悲劇としての『坊ちゃん』である。
小学館文庫の夏川草介の解説では『『坊ちゃん』が敗者の文学であることを認めつつ、(中略)坊ちゃんが背を向けた松山を<坊ちゃんと一緒になって「不浄の地」と笑うことは読者の側にはゆるされない>(中略)「この不浄の地」こそが我々が住む現実世界だからだ。<我々は坊ちゃんとともに松山を去るのではない/岸壁に経って、去りゆく坊ちゃんを見送る側なのである>』という。
ほかにも正義を巡る議論もあるが、ここで披露したいのはそれではない。
湯川秀樹博士がまだご健在だったころにひょっとした機会に、伺ったことのある漱石の『坊ちゃん』評である。
彼はいう。『坊ちゃん』は中央の地方蔑視の典型であり、あの小説を松山の人が喜んでいいわけがない。
この発言を聞いたのは1968年のことで博士の晩年ではあったろうが、これほど独特の意見を聞いたことはそれまでなかったので、とても記憶に残った。
そのときには私はすでに松山の大学に勤めることが決まっていたが、創造的な仕事をできる研究者の考えの一端を垣間見た気がした。