K 大学の現役の先生から数冊本を進呈されたことがあるので、その K 先生に送ろうと思っていたのだが、住所を調べる暇がなかった。
いま、さっきインターネットで調べたので、明日にでも送ることができるようになった。こういったインターネットで知り合った人だけの方も数人いる。
それでも本を頂いたりするようになるとやはり身近に感じるものである。M 先生はもう90才近いかもう越えたかの方だが、ときどき数学の本を頂く。
この M 先生は数学の先生の先生と世間で言われている方である。
自著の『四元数の発見』(海鳴社)を姪に送ったら、その夫の M さんが読んでくれているらしい。
その前に兄に電話をしたら、兄はお前の本は数ページ読んだが、難しくて読めないという。瀬山士郎さんの『読む数学』(東京図書)をいま読んでいるのだが、それに比べると難しいという。
そんなはずはないのだが、といって電話を切った後に、ああ第1章の終りの方が難しかしいことはないのだが、面倒だと気がついた。
それで姪のところへ電話をかけたら、姪の夫のMさん本人が出てきた。それでその旨を伝えたが、すでに第1章は読んだということであった。それに彼は言う。わからないところは飛ばして読んでいると。
そこらが本に慣れている人かどうかによる。数学の本などははじめから読むものと頭から決めていると大抵最後まで読めないものである。
だからということではないが、私は最近は興味があるところだけ読むことにしている。
だが、本を書く人はそういうわけにはいかない。自分も数冊の本を書いているのだからわかるのだが、どうしても体裁を整える必要を感じてしまう。
そうすると、なかなか本来の言いたいことに読者が近づいてくれるまでに読むことをあきらめてしまうことになる。
大抵、数学の本だとはじめに予備知識を導入して、それから著者が自分の一番主張したいところへと記述が進んでいく。そこまで行かない内に諦めてしまうということが実際に多い。
これは数学の本ではないが、むかし鶴見俊輔著『北米体験再考』(岩波新書)を購入後に読み通せなかったが、その後終りの章から前の章へと読んでみたら、なんとか読めたという経験がある。第1章が長くて退屈に感じられたのだ。
遠山啓著『数学入門』上(岩波新書)もそうであった。第1章がどうも関心をもてなかった。それで複素数の章から一つづつ前へと帰っていけば、第1章も読むことができたという経験もある。
本は必ずしも、「はじめから終わりへ」と読み進む必要はない。