昨日だったか一昨日だったか。近所の小学生が友だちとやってきた。妻がもっているタブレットに入っている映画を見るためである。
そのときに一緒に来た小学生がどうも如才のない子どもで家に入るなり、「おばちゃんの家はきれいだね」とかいったと妻が感心していた。
8月31日まで客間を占めていた本の入った段ボール箱をすべてかたずけて掃除をして数日しか経っていなかったからであろうか。
大体私の家は私が若いときは子どもが昼に遊んでちらかしても夕方に私が帰宅するまでには妻が掃除をしてきれいにしていた。
これは私が家の汚いのを好まないことを知っていて妻がそうしたのである。
大体小さな子どもがいれば、家の中は雑然としてくる。それはある程度仕方がないのだが、若いときはそれが我慢ができなかった。
ところがこのころは自分が年をとって片付けができないので、私の家は方々の部屋が雑然としている。
よく使う部屋だけでもきれいにしておくべきなのだが、どうもそれができなくなった。
きれいに整頓するには物を捨てたり、ものをどこかに収納したりすべきなのだが、収納すべき場所を確保できない。
それでそのままになっている。妻は私の集めた書籍でも研究中につくったノートにしても、私が死ねば、ゴミだといってはばからない。
確かに利用する人がいれば、資料ではあるが、利用する人がいなくなれば、ゴミであろう。
ある程度費用をかけて集めた、武谷三男の著作とか遠山啓の著作がゴミとしてほぼタダ同然に古本屋に引き取られるのはしのびない。
たが、それを資料として引き受けてくれる機関がどこかにないか探しておかないといけない。
だが、どこの図書館が手狭でなかなかひきとってくれたとしても、うまく資料として活用できる状態においてくれるかどうかはあまり保証されない。
ほおっておけば、エントロピー増大の法則にしたがって、貴重な資料も散逸してしまうであろう。