物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

業績評価

2015-07-08 17:28:21 | 日記
一般の人の業績評価をここでは意味しない。私の関心のある武谷三男の業績評価ということである。

まだ全く彼の伝記の作成とかには取りかかれてはいないし、これからも取りかかれることになるのかもすらもわからない。だが、どのように取り扱ったらいいのかについては今まで少し考えてきた。

それでいま現代の科学思想の中で取り扱うのがいいのではないかと密かに思い出している。

すでにここでも触れたことがあるが、高木仁三郎氏が原子力調査室に関わるようになったときに武谷との論争があった。考えの違いが明瞭にあったのだが、そういうことを主眼にした描き方がいいのではないかということである。

私はまだ高木のように徹底した立場に立つことはできていないが、彼に代表される考え方を無視することはできないだろう。

しかし、もっと広く現代の哲学思想の中での位置づけも考えるのがよりいいのではないかと密かに思い出した。これは私が勝手に思っているだけで、もしこのような考えに沿って私以外の方が同様な思考と論理を展開されるのはかまわない。

武谷の生涯の、時代に沿った伝記的な研究はすでに地道な研究が N さんによって始められている。それに科学史学会でもぽつぽつと研究発表は数人の方々からされているようである。その内容はよくは知らないが、それらが大きなものになっていくのかどうか。

それからまだなお、しなくてはいけないのは資料の整備である。私は「武谷著作目録」と「論文リスト」をつくった。著作目録の第3版はwikepdiaの武谷三男の項目の参考文献にもなっているが、また改定をしなくてはいけない段階になっている。

それに実は以前から思いながらまったくできてはいないのだが、雑誌や新聞に武谷が投稿した論文やエッセイのリスト作りはまだ全くできていない。

しかし、こういう仕事はすでに誰かがしてもいいはずだが、されていない。地道な仕事の評価が低いからであろうか。


再録(助動詞の現在完了)

2015-07-08 12:13:23 | 日記
話法の助動詞の現在完了という題で数日前に書いた。これは6月28日に私の受けたドイツ語技能検定試験2級に出題されたものであった。それは次のようなものであった。

(再録はじめ)
次の会話の( )の中に入る最も適切なものを選びなさい。

A: Warum hast du so sauer ? 君はどうしてそんなに怒っているの?
B: Weil dieser Fehler nicht ( ). この間違いはしてはならなかったからだよ

この解答の選択肢はつぎのようなものであった。

1. h"atte d"urfen passieren
2. h"atte passiren d"urfen
3. d"urfen pasieren h"atte
4. passieren d"urfen h"atte

記録をきちんとは残していないのだが、私は 1 を選択したらしい。しかし、正解は確かではないけれども 2 ではないかと思う。
(再録おわり)

これについて昨日述べた在間先生の解説でも「みなさんできましたか」と書かれている。前にも書いたように多分項目1を私は選択したと思うので、正解ではなかった。

在間先生は最近若いドイツ語の先生に聞いたら、この規則を知らない人がおられたと書いてあり、昔はこういう細かな規則も覚えたものだがと書かれている。

ドイツ語のとても優秀な先生の、Fさんに昔この規則にしたがった文章を実際に見たことがあるかと尋ねたことがある。彼はもちろんこの規則は知っているのだが、このような動詞が3つ重なった文章には出会ったことがないとのことだった。

これは日本人が試験のためにつくったような文章ではない、普通のドイツ語を母語とする人の文章でということであったろう。

最近のドイツ語入門書ではこの規則をきちんと書いてあるのかどうか知らないが、早川東三先生の書かれた『ドイツ入門』(NHK出版)にはもちろんこの説明に1章を割いておられる。

この試験問題を見た、私たちのドイツ語のクラスのリーダーであるOさんは一言「文法書をもっと勉強せよ」とだけ言われた。まことに返す言葉がなかった。

お店の移転

2015-07-08 11:53:29 | 日記
長らく伊予鉄会館内にあった「伊予鉄愛新観光」が松近タウンに移転したと聞いた。

ここで、ときどきここで航空チケットやJRのチケットを購入した身にとっては寂しい。しかし、市内電車のICチケットのチャージはここに残った支店でもまだできる。

航空チケットはまだここでも買えるという。ときどき半年に一回くらいの頻度で最近はICカードのチャージをしていた。

そして店舗の大部分が陶器の展示場となっている。松山市も少しづつだが変わっている。

私たちがこの松山に住むようになってもう40年以上である。もっと正確には45年か46年である。

またラフォーレ跡にもビルが建っており、もうすぐオープンである。

ドイツ語検定試験解答

2015-07-07 14:18:40 | 日記
第三書房のサイトに2015春季のドイツ語技能検定試験の解答とその考え方が在間先生によって載せられた。

このブログでも在間先生の解答とその考え方を楽しみにしていると書いたが、なかなか2級の試験の考え方の記述が興味深かった。

在間先生には一度だけ彼のお弟子さんのFさんの結婚式の時にお目にかかったことがある。もう何年も前のことである。

先生の一番弟子ともいえるFさんのためにわざわざ松山までそのときに来られたのであった。

なかなか人間味あふれた解答の指導であり、大問2の(3)と(4)とについての考えのゆれが推し量られ、興味深かった。

在間先生と言えば東京外国語大学のドイツ語の先生だった方でもあり、もちろんドイツ語の権威である。さらに2つも独和辞典を出版されている方でもある。だから、このような優れた方でもいろいろ設問に答えるときには考えの可能性の間で揺れるということは興味深い。

この(3)とつぎの(4)とは私の解答がどうしたか記憶がないのである。だから正しい答えを私が選択したかどうかはわからない。

(3)は

Die Vebreitung der Luftschmutzung hat in der Bev"orkerung ( ) Aufregung gesorgt.

で( )に入るのはf"urだとしているが、この用例はドイツ語を学ぶ外国人のための辞書であるLangenscheidtにも出ていないとあった。

つぎの(4)は

Die Stadt l"adt dieses Jahr G"aste ihrer Partnerstadt in Frankreich ( ) ihrem
dreihundertj"ahirigen Jubil"aum ein.

であるが、zuかbeiかに迷った記憶がある。その迷いの後でzuを選んだのかbeiを選んだのか記憶がない。beiを選んだ可能性が大きい。どうもこれはzuが正解らしいとドイツ語のクラスの解答のときにはzuを選択したけれども。

在間先生もそのことをちょっと触れられている。でも正解はzuでしょうときっぱり言われている。

在間先生、解答と詳しい解説を有難うございました。

多元環

2015-07-07 11:50:36 | 日記
多元環を言葉としては知っていたが、どんなものか知らなかった。一昨日だったか就寝前にちょっと遠山 啓編集の『数学教育事典』(明治図書)を開いてみたら、私にもわかるような言葉での説明があった。

それで多元環の何たるかの基本はわかったのだが、その中でまた疑問も出て来た。それはつぎのようなことである。

複素数とか四元数は多元環の一種であることは分かったが、結合法則が成り立つためにはその構造定数の間にある特定の関係がなければならないとあった(注)。

八元数は結合法則が成り立たないということを知ってはいるが、結合法則が成り立つための条件をどうやって導いたらいいのか。

実際に計算をしてみたらいいのかもしれないが、このことにちょっと戸惑っている。私のもっている本をちょっと調べてみたのだが、そのことに言及している本をまだ見つけていない。

小著『四元数の発見』(海鳴社)が発行されたときに納入された図書館でその書が多元環に分類されていたが、それを見ても私は多元環が何かを知らなかった。

ところがおよそ多元環が何かがわかったら、またまた新たな疑問が出て来た。

(注) 結合法則を満たさないような代数を多元環と呼ばないという多元環の定義もあるらしいが、結合多元環という語もあるので結合法則を満たさなくても多元環という呼び方をするという見解を私はとりたい。上にも書いたが、八元数は結合法則を満たさないということがよく知られている。

ちなみに多元環は英語ではalgebraであり、そういうことばとしてはLie Algbraなどはよく知られている。だから、「多元環」という語を使わずに単に「代数」という用語を使っている書もある。

なお、構造定数がどんなものかをこのブログでは示せない。式で表して定義をすればすぐにわかることだが、失礼をする。


サッカーワールドカップ終わる

2015-07-06 12:09:59 | 日記
先刻、カナダのヴァンクーヴァ―で行われた決勝戦で日本はアメリカに5-2で敗れて準優勝に終わった。

これはしかし、残念というよりはむしろよくやったという気がする。先回のワールドカップで日本の優勝は奇跡というか神がかっていたが、今度はそういう風でもなく、それでもここまで行けたのはサッカーの23人の選手の努力研鑽の賜物であると同時に佐々木監督以下のコーチ陣の指導の成果の勝利でもあろう。

よくやったとお褒めの言葉が全国民からあっても当然であろう。それにしてもアメリカの選手の運動量はすごかった。4年前の悔し涙が今回の優勝に導いたというのは過言ではない。

日本は最初の10分間での多量失点にもかかわらず2点も返すことができたのは素晴らしいと思う。あらためて日本のチームの素晴らしさが今回のワールドカップで出たと思う。

宮間キャプテンはじめ全員胸を張って帰国されたらいい。日本人はみな、あなた方を誇りに思っている。

多い言葉と少ない言葉

2015-07-06 11:48:11 | 日記
またまたドイツ語ネタですみません。

6月28日のドイツ語機能検定試験の受験のために『ドイツ語基本単語集』(白水社)を少し読むことにした。

nで始まる語からはじめたのだが、いまsのところにかかっている。ところがこのsで始まる語がドイツ語では一番多い。それでなかなかこのsで始まる語のところが終わらない。

それにそこに至るまで比較的知らないと思われる語がすくなかったのにこのsに至って知らない語の続出である。これは自信を失うに十分であった。

私は多分3000語のレベルだと思われるからしかたがないのだが、それにしてもsで始まる語ではいかに知っているドイツ語が少ないかを知らされた。

でも将来準1級を目指すのなら、5000語はまずクリアしなければならない。ということで苦労している。

ちなみにドイツ語で一番少ないには多分qで始まる語であろう。i,jで始まる語もあまり多くはなさそうである。cで始まる語も少なそうである。これはcはドイツ語ではkで置き換えられることが多いためかもしれない。

qで始まる語ではすぐに思い出す例はQuittungとかQuantenmechanikぐらいしかない。



人生は闘いだ

2015-07-04 11:29:39 | 日記
「人生は闘いだ」などと書いたが、私がそう厳しく思っているわけではない。

だが、子どもにとって自分の価値観を押し付けてくる親と自分の価値観とがちがうときに自分の主張を押し通すのは人生はじめの闘いかもしれないと思う。

親はすでに子どもよりも何年も多く生きているからそれなりの人生観、世界観や理想をもっている。それが悪いことだとはいえないが、それを子どもにしたがえと押し付けるような場合には子どもの方から言えば、それに抗するのは一種の闘いであろう。

それも親として子どもに良かれと思って自分の世界観というか理想を求めてくるということはどこの親にもありそうだ。なかなか親としての自分のことはわからないものだが、当事者としてではなく外から傍観者的に観察できるような場合にはそのことがよくわかる。

その食い違いが起こったらどうしたらよいか。なかなかその答えは簡単ではないし、一つではない。しかし、あり得る一つの答えは親の方が自分の考えを修正してまたは緩めて、子どもに歩み寄ることではなかろうか。

そんなことが親としての私にできているというのではない。そういうことはやはり「言うは易くして行うことは難しい」ことである。

本当にいいのは親と子が話し合ってどこかに妥協点が見つけられば、いいと思う。頑固でかたくななのは親も子も同様であろう。だが、年がまだ行かない、子どもは妥協とかの意味もわからないだろうから、まずはいったん親が自分の世界観があんまり一面的ではなかったかと反省して修正を試みるしかなかろう。

これは子どもといってももう成人した大人の場合とは異なる。だが、往々にして柔軟性に欠けた思考は大人たちどうしの場合にも生まれてくる。なかなか和解とか妥協が難しいのが、実情である。

誤解を招かないように念を押しておくと、この問題に直面しているのは私の家においてではありません。第一そんなに歳の行かない子どもが私の家にはいませんから。

四元数の発見とcinii検索

2015-07-03 16:52:37 | 日記
国立情報学研究所の検索サイトで小著『四元数の発見』(海鳴社)を検索するとこの書を購入している大学はいまでは39大学に及んでいる。

よく売れたいうべきか、もっと売れてしかるべきだたとか、一概にいうことはできない。全国の大学は数百もあるのだから、たったの39冊しか売れていないというのは著者としてはがっかりするようなことでもある。

しかし、四元数などというテーマは私の人生でもごく最近まで関心をもったことなどなかったのだから、世間が冷たいなどとは言えないだろう。

ただ、例えば私の生まれた I 市の市立図書館に1冊入っているから、図書館の司書さんは購入を検討するときに私がその I 市の出身であることを考慮して下さったのだろうと思う。

というのは『四元数の発見』などという書は普通の人のからは縁の遠い書物であることはまちがいない。私が長年勤めていた E 大学でも図書館が購入してくれている。これは私を知っている人がおもしろそうだと思って図書館を通じて研究用の図書として購入してくれたのかどうかまでは調べていない。

私の卒業した H 大学の図書館も割に早い段階で購入してくれていたので、やはり図書館が自分の大学の出身者の書いた比較的安価な本ということで購入をしてくれたのかもしれない。そういうことを思うといろいろなご縁をうけているわけである。

もちろん著者としては義理に購入して頂くのではなくて、実際に読んでもらいたいものだが、アマゾンコムでの書評以外には私の知るところでは書評らしい書評はインターネットでは見られない。

一つだけ読もうとして下さったらしい評がインターネットにあったが、一言だけで「まるで数学パズル」とだけあった。

多分、この本を読む動機が薄ければ、そういう感想が出てくるのは避けられない。私本人だって自分が書いたのでなければ、敬遠したいような書の最たるものである。だが、それはそうだが、私がこのような本を書く前にどなたかがすでに書かれてしかるべきだったものだと思っている。

そしてそれは読む気さえ起こしていただければ、本当に高校数学だけの知識でもわかるように書いてある。

ただ、すごい式の羅列を見たときに心臓麻痺を起してしまう数式アレルギーの人には勧められない。

ただ、数式といえどもある種の言語みたいなものであり、それを英語かドイツ語を読む解くみたいに読めばいいのだというくらいのことはわかっていてほしい(注)。

そうすることがもしできると、一見したところ数学パズルだとの印象はまったく違って来る。だが、そういう風に考えてこの書を評価して下さった方はまだ少なそうである。

やはり英訳して世界にその評価を問わなくてはならないのだろうか。

(注)数学を一種の言語だとする考えは正しくはないのかもしれないが、そういう考えもあることは事実である。いまはそういった哲学的な話はさけたい。

間違った解答

2015-07-03 15:41:23 | 日記
ついでという訳ではないが、ドイツ語2級の技能検定試験で私が明らかに間違ったところを続けてみよう。

設問4の(1)につぎのような文章があった。

(1) Bring da Spielzeug dorthin zur"uck, ( ) du es geholt hast !

選択肢は
 1 was  2 woher  3 wie  4 wohin

であった。よくわからなかったので、しかたなく3のwie選んだのだが、正解は2のwoherらしい。文章の意味は、「そこからとってきたおもちゃをそこへ戻しなさい」という意味らしい。

そう説明をされるとそれでいいような気がするが、この文章を読んだときにはどれを答えとしていいか皆目見当がつかなかった。一つだけわかったのは1のwasはダメだろうということぐらいしかわからなかった。

これはesとすでに目的語があるので、wasだけはとれないだろうということだった。さらに今考えるとdorthin zur"uckとあるので、wohinは選択肢からはずれるだろう。そしてそこからおもちゃをとってきたという考えにちゃんと至れば、woherしか解答の選択肢は残らない。

そんな理詰めの思考はまったく起こらなかった。ある種の パニックに頭がなっていたと思う。

もう一つ明らかに私がまちがえたのは設問6の(1)であった。設問の冒頭部分に関係したところだが、

Afrikanische Elefanten erkennen das schon (A) Klang der menschlichen Stimme, berichten Wissenschaftler im Fachmagazin PNAS.

とあって、この(A)の選択肢は

1 am 2 beim 3 vom 4 zum

の4つである。ヤマ勘で3のvomを選んだのだが、正解は1のamだという。どうも

jn an et(3格)erkennenといういい方があるので、an dem=amらしい。そう思うと声の響きに接してという感じでamがよかったのかなといまにして思うが、これは後知恵であり、もうおそい。

他にもう解答の記録と記憶にないところでもいくつかミスをしているだろう。ただそれがどのくらい多いのか少ないのかはもうわからない。試験結果の発表を待つのみである。

偶然にヤマ勘で答えたところが一箇所だけ答えが正しかったところがあったが、むしろこういう箇所はめずらしい。大抵はその推測をはずしているというのが実情である。

近々、第三書房のサイトから在間、亀谷先生によってドイツ語技能検定試験の正解、その解説と対策の指示が出ると思うのでそれを読んで学べることを私も楽しみにしている。

在間先生、亀谷先生よろしくお願いします。

ドイツ語検定余話

2015-07-03 13:34:12 | 日記
昨日、話法の助動詞の現在完了ということを書いたが、その他の私がミスしたことが明らかなことを書く。

a,bの文がほぼ同じ意味になるように( )中にもっとも適切な一語を入れよという設問であるが、少なくとも二つ間違った(もちろん確認できていないが他のところもまちがいがあろう)。

a: Mari und Markus treffen sich jeden dritten Tag im Caf'e.
b: Mari und Markus treffen sich (alle) drei Tage im Caf'e.

で( )中はalleが入るのが正しいのだが、バカなことにallenとnをつけてしまったと思う。
会話でallenとnがついたことは聞いたことがなかったのだが、Tagはder Tagと男性名詞だし、こういう場合の時の副詞は4格だと聞いたことがあったからである。

ところが実はこのことは正しいのだが、Tagという単数ではなく、Tageと複数になっていることを読んで見ているはずなのだが、そのことが上に書いた考察には入っていないのである。このことが私が間違った理由である。

もう一つはこれもかなり難しい話だが、次のような文章である。

a: Die Autobahnen, die man in den 60erJahren gebaut hat, werden langsam bauf"allig.
b: Die in den 60er Jahren (gebauten) A utobahnen werden langsam bauf"alig.

とすべきところをgebauteと解答して、この場合にはnが欠けていた。これもAutobahnenが複数であることを見ていながら、そのことを無視した解答であった(注1)。

こういうところはさすがにドイツ語のクラスのリーダーのOさんは見逃さない。立派なものである。

R氏がこの点についてAutobahn(en)となっているからgebaut(en)と語尾enがつくのだと言われたが、そういうことはドイツ語を母語にしている人にはあまりにも当然すぎるとしても私などはなかなか及ばないところである。

昔の学生のころ、ドイツ語の先生がこういうときにgebaut(en) Autobahn(en)というように語尾が一致しているのだと言っていたと聞いたことがある。しかし、これは私の教わった先生から聞いたことではない。文学部関係の学生が言っていたことかすかにを覚えているに過ぎない(注2)。

そういえば、NHKのテレビのドイツ語講座を長年にわたって担当しておられた小塩 節先生が形容詞の「語尾変化」は複数の場合には「えんえんとenが続く」と言われていたことをいまになって思い出した(注3)。

2番目のまちがいの例も複数であることを見ながら、それを上の空で単数としてあつかったという私特有の思いこみのまちがいがあったということである。

ドイツ語のせんせい様、どうしたらこういったまちがいがなおるでしょうか。

(注1)2番目の例で出て来たlangsamという語はこの場合には日本語でいうと「そろそろ」という訳語があてはまるだろう。一般にはlangsamとは「ゆっくり」という訳語があてはまるが、ここでは「そろそろ」という意味だろう。

(注2)gebaut(en) Autobahn(en)の二つの語の中の( )は語尾を強調するだけの意図しかない。下線を引くことができればいいのだが、それができないのでカッコで代用してある。

(注3)形容詞が格語尾変化をするということを認識したのはドイツ語を学んでから、4,5年も経った後であった。形容詞の語尾変化はドイツ語のキズだという人もある。それも何も冠詞がつかないときと不定冠詞がつくとき、定冠詞がつくときの3つの場合がある。

いまの問題では定冠詞がついているので、一番単純な場合である。用語はあまりよくは覚えていないが、形容詞の弱変化というのではなかったろうか。

(付記) 6月28日の技能検定試験のときに2級では8人の受験者がいたと言ったら、妻などはびっくりしていた。彼女は私以外の受験者がいないのではないかと心配していたのである。

「まだまだドイツ語も見捨てたものではないのだね」とか、「先生のR氏の努力が実っているね」という評価であった。

このことをR氏が聞いたら、とても喜ぶのではないかと思われるが、はたしてどうだろうか。

プレゼンテーションのしかた

2015-07-02 12:30:13 | 日記
「いいプレゼンテーションのしかた」を示すという放送がNHKのEテレのスーパープレゼンテーションで昨夜あった。

いくつかのキーワードがプレゼンテーションのしかたにはあるようだ。

まずself,us, nowというのがある。これは「自分の体験を述べ、聴衆の共感を得て、聴衆に行動を促す」ということだという。

プレゼンにおいてはchapterzingという「区切りをつける」ことも行うといいらしい。

また、audience participation(聴衆参加), body language(ボディランゲージ), prop(小道具)という工夫もいいという。

またemotion(感情に訴える)というのもいいプレゼンの極意の一つらしい。

名言集では前にこのブログでも前半部分をとりあげたかもしれないが、

Failure is an option, but fear is not.

というのもあった。「失敗することは自由だ。だが、恐れることは自由ではない(恐れるなという意味か)」とでもいうのだろうか。後ろの部分の訳は記録ができなかった。

話法の助動詞の現在完了

2015-07-02 11:49:45 | 日記
長いタイトルだが、これはドイツ語の話である。去る6月28日にドイツ語技能検定を受けたのだが、その問題の中につぎのようなものがあった。

次の会話の( )の中に入る最も適切なものを選びなさい。

A: Warum hast du so sauer ? 君はどうしてそんなに怒っているの?
B: Weil dieser Fehler nicht ( ). この間違いはしてはならなかったからだよ

この解答の選択肢はつぎのようなものであった。

1. h"atte d"urfen passieren
2. h"atte passiren d"urfen
3. d"urfen pasieren h"atte
4. passieren d"urfen h"atte

記録をきちんとは残していないのだが、私は 1 を選択したらしい。しかし、正解は確かではないけれども 2 ではないかと思う。

普通にドイツ語の副文章(英語の従属節のこと)では定動詞後置であるが、動詞が 3 つ続いた時には特別に定動詞がその3つの動詞のグループの最初にくるという規則があることは知っていた。しかし、そのあとの語順があいまいだった。それで 1 を選んだと思うのだが、この場合の話法の助動詞はd"urfenは原形のようだが、過去分詞である。その場合にはたぶん2の語順にならなけらばならないらしい。

まだまだ 2 級の試験に通るには知識が十分に正確ではなかった。

ちなみに A, B の後の日本語訳は私が勝手につけたもので問題には出ていない。だから訳が正しいことは保証することはできない。

こんな問題をわざわざ出すところが、ドイツ語の試験問題の出題者の先生の、「2級の程度を甘く見るなよ」という心意気かと感じた次第であった。

もしそうでなかったら、出題意図を意地悪にとって出題者の先生方、すみません。

大学にも、会社にも希望がない

2015-07-01 12:33:13 | 日記
会社にも大学にも希望がない。

私の知らない会社のことはおいておくとしても、大学が希望の持てるものでなくなっていることは確かであろう。

法人化されたとはいえ国家の予算で運営されている国立大学がさらに体質改善という名の崩壊の一途をたどっている。国家予算が国債を発行してなんとか予算を立てている状況だからしかたがないが、それにしてもどうも卵がかえる前に腐ってしまうような感じである。

いまでもそうかもしれないが、20年以上前日本の来られて、研究していた中国人のある物理学者がその当時産業とかに応用が期待できる分野には予算がたくさん出るが、そうではない分野にはほとんど国家予算がつかないと嘆いていた。

ところがそれと同じようなことが日本でも同じ状態が出現しつつある。目玉の研究プロジェクトとかには確かに予算がつくが、それ以外には予算はほとんどつかないらしい。まあ、文系分野の学者は昔から参考文献などの購入も自分の給料からしていたということもあるのだが、それにしても以前は少しは予算がついていた。

実情を詳しく知らないが、私たちが大学に勤めていたときの配分される予算は1/3くらいになっているのではないかと思う。これでは地域に特色のある大学だとか言ってもこれでは無理というものであろう。

もっともそれでもなんとか大学に残って研究したいと思う若い人がいるとすれば、それがわずかな希望のもとになる。

ISにしてもEUに押しせる難民にしても大きな問題を世界が抱えている。それに財政問題からEUからの離脱か残留かの判断が迫っているギリシャの問題も。


戦争の概念

2015-07-01 12:12:00 | 日記
岩波の雑誌『図書』の7月号に作家の高橋源一郎さんが書いていた。

「私たちの年取った世代ともっと若い世代の間には戦争の概念が違っているのではないか」と。私たちの世代では戦争は国家間または民族間の戦争であるが、もっと若い世代ではすでに日々の生活が戦争ではないかと。確かに至るところ生き苦しい社会である。

女性参画社会だとかいうが、別に社会が女性が社会で自分の能力を十分に発揮できるような社会が実現しているかと言えば残念ながらそうではないだろう。

ある女性は子育てしながら、かつ社会参画しながら、「なおまだ女性にもっと働けと鞭打たれているようだ」と言っていたと新聞に出ていた。

いつだったか、若い女性は結婚して家庭内に入るのが理想だというアンケートという結果があると聞いたことがあり、それではちょっと夢がなさすぎると思ったことがあったが、事情通の人から聞いたところではそれくらい夢のない社会なのだという。

だから、結婚して幸せな家庭をきづくという若い女性の夢はむしろ自分を守りたいという気持ちの表れだとか聞いた。このことはもうかなり前に聞いたので私の中でひょっとしたら解釈が全く変なものに変わっているのかもしれない。その場合にはお許しのほどをお願いする。

それにしてももう国家間や民族間の戦争とかの概念が古典的な戦争の概念だとしてもまたそのような戦争をしたがっているように見える現在の安倍政権のあり方がいいはずはない。

戦争なんて正義の戦争みたいな顔をしてはじめられたことが多いのは歴史的な事実である。国家の生命線を断たれると言って中国やアメリカと戦争したのは70年以上も前のことではあるが、それと同じような主張がまかり通る時代になっている。