物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

2016-02-17 12:28:47 | 日記
妻がある先生の家に絵を習いに行き出した。それでこのごろは描きかけの絵が家の方々におかれている。額縁という額縁がほとんど彼女の絵が入っている。

水彩画であるが、全体的にまだ上手とはいえない。もっともその絵の一部の山を描くことは得意と見えて結構上手である。それにしても全体としてはまだまだであろう。

絵の先生はどういう経歴か知らないので、正式の絵画についての教育を受けた人なのかどうかは知らない。だが、小学生たちが来る日に2回だけ小学生と一緒に絵を描いただけだが、高島屋のふれあいギャラリーへの展覧会への出品となった。だからどの絵もそれほど立派とは考えられないが、先生の K さんはそういう活動自体が好きで、絵を見に来てくれた人との交流も楽しむという感じの方らしい。稀有な方である。

だから、展覧会といっても日頃の研鑽を積んだ成果を示すものというよりもそういう展覧会をするという活動自体を楽しんでいる。

ところが、その絵の展覧会を妻の所属する書道クラブのメンバーが見に行って、絵を習うと言い出したらしい。身近な人が絵を習いに行き出したことを知った妻の友人が自分も絵を描くと言い出したことは妻の行動が何らかの影響をまわりに与えたということであろう。

話はちょっと別だが、書道は、妻は最近5段になった。準5段の時代が長かったが、ようやく5段になったと本人は喜んでいる。

それにしてもなんという、最近の老人たちの活躍の多彩さよ。平均寿命が90歳に迫るはずだ。

大きなミス

2016-02-17 12:22:10 | 日記
先日ある活動家が亡くなったと書いたが、その当人からメールが来た。

ということは私の聞いた噂は正しくなくて単なるうわさであったことになる。だから T さんはまだ元気で活躍をしておられる。ここで謹んでおわび申し上げる。

誰がそういう噂の元になったのかわからないが、その噂の真偽を調らべなくてよかった。やれやれ。

そろそろ6巻1号の編集を

2016-02-16 11:45:58 | 日記
しなくてはいけない。十分な量の投稿があるのだが、さてどうするか。

またlatexで入力しなければならない原稿もある。それらをどうするか。以前ほどの手間はかからなくなったが、それでもページ数とか順序とかを考えなくてはならない。

そしてもし一応の編集ができたら、著者に点検をお願いしなくてはならない。それらは楽しい作業でもあるが、苦行でもある。

もっとも最近インターネットで検索をしていたら、参考文献に『数学・物理通信』が引用されてあった。これは多分仙台の T さんの投稿されたものを引用文献として挙げられていたのだと思う。

多分wikipediaの記事の引用文献であったと思う。

それとは別だが、私が前につくった武谷三男の著作目録の第3版も参考文献に挙がっていた。もっともこれは最新版は第4版であるのでちょっと版が古い。そしてその第4版もそろそろ第5版を出さないといけないとは思うのだが、これはまだ準備もしていない。


考えがまとまらない

2016-02-16 11:21:00 | 日記
のはいつものことであるが、やはりそうである。

三角関数の還元公式のことをエッセイにまとめているが、第一象限にある角について公式が成り立つときに他の象限の角でも成り立つのは三角関数のグラフを考えれば、当然のようだがそれをどう示したらいいのかがわからない。

どうせグラフで還元公式を示すことをしたいと思っているのだが、その図を描くのが結構面倒そうなので、なかなかそこに行けていない。

第一象限の角のときに成り立つことから、その事実を使ってすべての象限での角に対して公式が証明できそうな気がしたので夜寝る前にすこしやってみたが、うまくいかなかった。

第2象限の角に対しては上手くいったが、それを第3象限にも適用したら、うまくいかなかった。

バレンタインデー

2016-02-15 18:10:55 | 日記
だとかで、義理チョコをもらった方も。本命チョコをもらった方もおられるのでしょう。

妻も子どもに何かチョコと他のものを送ってやったらしかった。子どもといってももう中年で40歳代である。それにしても親にとっては子どもは子どもであり、気にかかる存在であることはまちがいがない。これはどの親御さんでもたぶんおなじことだろうか。

チョコレートの売り上げの半分だったかの多量のチョコを売ることができるとかで、チョコ業界にとってはこんなおいしい話はない。その割には日本の産業の業績があまり上がっていないようなのはなぜなのだろうか。

景気はいいなどという話は中国人の爆買いを期待するデパート業界とか量販店くらいであろうか。それも最近の円高とかで売れ行きも少し落ち込むのだろうか。

資本主義は企業の成績のために非正規雇用者を増やすということをやってきたが、そうすると所得が少なくなるからものを買うときにも選んだ品物しか買わなくなる。それに私たちのような年金生活者である。これも収入が少なくなるから買いたいものがあっても経済的に買う金額が少なくなる。400万人の非正規雇者がおられるとかいう。そしてそのうちの約100万人の男性で40歳代の非正規雇用者がいるとか。

というわけで構造的な不況で、近隣諸国の横暴とかを強調して軍備増強に走るという政策に出るのは日本も例外にではない。数年前だけれども防衛庁が防衛省に格上げになった。これは軍備拡張の意図が表れた政治的な動向であったが、これに反対するマスコミなどなかった。

中国が日本の領海を侵犯するだとか領空を侵犯するだとか、またそういう話があるとそれほど日本の軍備増強を訴えることをしなくても防衛予算が増えてもあまり誰も問題にはしなくなる。これはやはり資本主義の最後の利潤をあげる分野が軍事産業だということである。

アメリカの大統領選挙等でもアメリカの国際威信の回復とかいうとあまり文句をつけにくいというのか、オバマ大統領が軍備に金を使わないことをあげつらうようなことで人気を得たりする候補が出てくる。とはいっても別にオバマが最低限の予算で軍備をやりくりしているとも思えない。

要するに戦争や紛争は最低に悪質な支出であるが、資本主義はここで利潤を追求しようとする。というのはもう他ではなかなか利潤が上がらないからだ。私はこういう状態なら資本主義の限界が見えたという気がしている。

しかし、だからと言ってもう以前のような社会主義の国家ができるとは思っていないし、その時代にあった計画経済がうまくいかなかったという経験を世界はもっている。だから、資本主義の形態をとりながらも何らかの活路を見出さねばならないでだろう。それも自分の国ではない、世界の他の地域で紛争を起こして儲けるというような最低の考えではなくて。それにはどうしたらいいか。アイディアが今ほど求められているときはない。

アメリカは理想の国か

2016-02-15 10:53:28 | 日記
などと書くとまだそんなことを思っていたのかとあきれられそうだが、そういう意味ではない。

もう数十年前にもなるが、「アメリカは軍事大国だからアメリカには行きたくない」と私が言ったとか妻が今朝ボソッとつぶやいていた。

堤美果さんというアメリカで教育を受けたジャーナリストの方がおられ、その堤さんが書かれた新書を図書館で借りてきた妻が読んでの意見がアメリカを批判するだけではいけない。今後どうしたらいいかの処方箋を示さなくてはというものであった。

堤さんはアメリカで教育を受けた方なので多分アメリカがどうしようもない国だとは思っていないのかもしれない。だが、アメリカの国は少数の賢い人がいて、大部分はあまり頭を使わない賢くはない労働者がいればいいという考えだと妻は言う。

だから、アメリカンドーリムとか言っても確かに貧困から立ち上がって金持ちになる少数の人はいるが、そういう人は圧倒的に少なくそういう夢をかなえることのできる人はごく少数である。

また、軍産官複合体制で学問研究だって大抵は海軍とか陸軍とか空軍からの資金によっているのが普通である。そして世界の紛争があれば、アメリカの弾薬庫が空っぽになるから紛争歓迎である。

これは確かではないが、イラクやシリアにはびこるISだってもとはアメリカの諜報機関が資金援助して育てたものだとまでいう人もいる。

それだからという訳ではけっしてないが、アメリカには私はもう若いころから夢を抱いたことはないし、行きたいと思ったこともない。

三角関数の還元公式

2016-02-13 16:44:13 | 日記
の名称は私には新しくはないが、多くの文献ではあまり見ない用語であったので、私はこの用語を一般に知らしめたいと考えていた。ところがこれは私の予想に反してというか、インターネットの世界では普通に流通している用語であることを最近知った。

というのはこの還元公式のことを現在、数学エッセイとして書いているのだが、どうも論理的にすっきりしないところがあってインターネットの世界で還元公式のことがどう書かかれているか知りたいと思って検索したところ三角関数の還元公式という用語はすでにインターネットの世界では普通に使われているということをはじめて知った。

私がこの用語を知ったのは武藤 徹先生の『数学読本』(三省堂)を通じてであり、この用語が使われている例としては私にはこれが始めであった。だから、三角関数の還元公式という用語は武藤先生がこの用語をつくられた方だと思っている。

インターネットの世界で還元公式という語がいつごろから使われるようになったのかは知っていないが、私の知るところでは高校の数学の学習参考書とかではいままでどこにも見たことがない用語である。

もっともインタ―ネットの検索で私のブログにおいて還元公式に言及したものも引っかかっているが、還元公式の名前が今後一般に広がるとよいと思っている。だが、私がインターネット検索した理由である、この還元公式の導出についての疑問について考えて説明をしてあるサイトにはいまのところまだお目にかかっていない。

重力波初観測

2016-02-13 11:34:20 | 日記
のニュースが入ってきた。二つの連星のブラックホールが一つになったときに発生した発生した重力波を観測したという。13億光年前の情報をようやくつかんだという。

これはアメリカの観測であったが、ヨーロッパも日本も観測装置がそろそろ立ち上がって近いうちに観測を始められるという。

もっとも4kmの長さのところをレーザー光をL字型の経路の互いに垂直な別の方向に飛ばせてそれらの反射光のもとの観測場所で光の干渉によって光の干渉縞が点滅変化するのを観測するのだという。

それも重力波による空間のひずみの大きさは水素の原子核の1万分の1の大きさだというから検出が難しいのはしかたがない。経路が熱でわずかに伸びたり、縮んだりするかもしれいないそれだって影響を与えるならそういうことを除外できなくてはならない。

最近のニュースではニュートリノ振動の発見によってニュートリノの質量がゼロではなかったという結果が得られているが、それに次ぐ快挙であろう。

この機会に一般相対論の実験的検証についての解説論文を友人の E さんに「数学・物理通信」に書いてもらうように先ほど電話をして、お願いした。

昨夜のNHKのニュースではどういう項目が上がっていたのか読み取る時間がなかったが、5つか6つそのような項目があがっており、重力波の観測はその最後の残された一つの実験的検証であるとのことだった。

私が学生の頃に聞いた相対論の講義では一般相対論の実験的検証としては

1.光のスペクトルの赤方偏移
2.重力場による光の湾曲
3.水星の近日点の移動

の3つが一般相対論の実験的検証として挙がっていたが、いまではもっとたくさんの実験的検証があるらしい。

Gr"unewald

2016-02-12 13:18:04 | 日記
Gr"unewaldのことで私が以前に書いたことを抜書きしておこう。

若き日にあこがれたミツコさんから武谷(注)はサンタマリアの表情を思い浮かべる。そしてサンタマリアの絵にはほとんど笑っているものがないことに思いがおよぶ。そしてマリアが笑っていないのは、わが子キリストの未来の悲しい運命を予感していたためではないかと思うようになる。

しかし、笑っているマリアの絵がまったくないわけではない。フランスのアルザス地方の小さな町Colmarの教会にあるGr"unewaldの描いた「木リストの降誕」には明るく微笑んだマリアが描かれているという。これはGr"unewaldが当時の農民戦争に巻き込まれ、そこから抜け出してきて民衆に希望を与えるようにと描いたためだという。

武谷がこの教会をいつ訪れたかは知らない。たまたま著者もこの教会を約30年前に訪れたことがある。そのときにGr"unewaldの絵の絵葉書を数枚購入して、絵を描いている義父に送ったら、「Gr"unewaldの古典的な絵をじっくりと鑑賞した」という手紙をもらったが、そのなかに「キリストの降誕」があったかどうかは覚えていない。いつかClomarを再訪する機会があれば、武谷の話を確かめてみたい。(「武谷三男と三段階論」、徳島科学史雑誌、no. 24 (2005)から)

(注)武谷とは物理学者の武谷三男のことである。

グリューネヴァルトの絵

2016-02-12 12:41:11 | 日記
今日2月12日の朝日新聞の愛媛欄にグリューネヴァルトの絵の「イーゼンハイムの祭壇画」という記事と写真が出ていた。カラーの絵である。この写真は複製画であるが、徳島の大塚国際美術館の所蔵の絵の写真である。

これを描いた画家が16世紀の画家グリューネヴァルトであるという。ちょっとグリューネヴァルトというと私にも因縁がある。というのは1976年2月3月にドイツ南部の町フライブルクのゲーテ・インスティチュートで2か月のドイツ語の研修を受けていたが、フランスのアルザスの小さな町である、コルーマーを友人たちと訪れ、そこの教会か美術館でグリューネヴァルトの絵を確かに見たことがある。

その中に多分この「イ-ゼルハイムの祭壇画」も入っていたはずだが、覚えていない。その後、物理学者の武谷三男が亡くなる直前に書いた「あこがれ」という題の文を彼の死後読んでグリューネヴァルトのことを知ったからである。

このコルマーの美術館にはグリュ―ネヴァルトの絵がたくさん所蔵されていて、そのときに絵が専門の義父にその絵ハガキを買って送ってあげたら、返事にグリューネヴァルトの古典的な絵をじっくり鑑賞したという返事を確かにもらった記憶がある。

武谷三男との関連で言うと、武谷はこのコルマーで同じグリューネヴァルトの「ほほえむマリア」を見たとエッセイの「あこがれ」で書いている。彼の回想は若いときに憧れたミツコさんに関係しているが、ミツコさんは若くして結核のために亡くなってしまう。そのことから話がはじまってグリューネバルトがなぜ「ほほえむマリア」を描いたのかという考察に入っていく。

これはドイツであった農民戦争の悲惨さから農民の心を和らげたいとの意図のもとに描かれたのだという。

長谷川千尋記者は音楽に詳しい方らしく、オペラ「画家マティス」というのがあり、この画家のマティスは実はグリューネヴァルトのことだと書いている。そしてこのオペラを作曲した作曲家のヒンデミットはオペラ「画家マティス」で農民戦争に直面した画家の苦悩を描いているという。これは実はヒンデミットが見ていたナチスの人種差別政策への批判を含むものだったらしい。マティスはグリューネヴァルトのVornameのマティアスによるという。

nasinoとは

2016-02-12 12:20:25 | 日記
先日、イタリア在住の女性のブログのことを書いた。そのときにnasinoが分からないと書いた。少し大きな伊和辞典を引いてみてもnasinoは出てこない。だが、nasoという語があるのに気がついた。nasoは鼻のことである。-inoは多分縮小語尾だと思われる。例としてneutrinoは昔は日本語訳では「中性微子」などと訳されたが、いまではこの音でそのままニュトリーノと呼ばれている。ごく最近では日本人の物理学者梶田さんがノーベル物理学賞をもらわれた業績がニュートリーノ振動の発見であった。

そうするとnasinoは鼻のことだろうか。鼻の先が寒さでイチゴのように赤くなっているとでもいう意味だったのだろうか。私はそこのところを子どもたちの頬がイチゴのように真っ赤になっていると解釈していたのだが、そうではなそうである。

縮小語尾をつけた言葉で私が思い出す言葉はmandarinoである。これはイタリア人の友人の化学者である、フランコ・ロラがフライブルク大学のメンザ(学生食堂)で昼食に出ていた、小さいミカンを見て発した言葉である。いま伊和辞典を引いたら、別に小さいミカンとは書いていなかった。普通のミカンのことをいうのだろうか。


武谷三男と坂田昌一

2016-02-11 12:00:56 | 日記
:交流の一断片 というタイトルの論文が物理学会誌の2月号に載った。すでに西谷正さんが彼の論文で扱ったようなテーマもあったが、それだけにとどまらず掘り下げられた内容もある。

なかなかこういう細かな内容を取り扱うということに苦労が見られるのだが、逆に言えば不満な点もある。それは多くの論争点が武谷に関していえば残されているのにそれをほっておいて細かな点をつめているというような点である。

しかし、いくつかの疑点がすこしでも解決するのは悪いことではない。ちょっと驚いたことは私の古いエッセイが引用文献に上がっていたことである。その他の文献の著者は南部陽一郎さんとか牧二郎さんとかの論文であるのでこれらの人は私などと比べれば格段に有名かつ物理でも業績を残した人であり、その人たちと比べられる見解が私のエッセイの中にあったのかどうか。

私は量子色力学(Quantum choromodynamics)といわれる分野での発展のありようが後からみると武谷三段階論にあっているように思うという見解を述べたが、そういう見解を私がどこかで誰かの説として読んだことがあるわけではない。その辺のことを評価してくれたのだろうか。 

水俣への回帰

2016-02-11 11:46:37 | 日記
というのは水俣病の研究に一生をささげた医師、原田正純さんの著書である。それを昨日県立の図書館から借りてきた。

そのなかに「武谷三男の安全性の考え方と水俣病裁判」という章があるのを知ったからである。その本を借りて帰ってちょっと読んでみるとどこかで読んだことがあるような気がした。

それでその文章のおしまいのところを見たら、これは武谷が亡くなったあとの記念号として2000年に出された「技術と人間」の臨時増刊号に載っていた文章を加筆したものであることがわかった。

原田さんはいろいろな雑誌に頼まれてのことではあろうが、水俣について書かれていてそれが貯まって日本評論社から2007年に『水俣への回帰』という本にまとめられた。この本は同じ出版社から出版された3部作の最終版であるという。

すでに「技術と人間」への原田さんの寄稿文はパソコンに入力をしていたのだが、加筆された箇所を新たに入力をしなければならないことがわかった。

銀行業務は生き残れるか

2016-02-11 11:29:48 | 日記
スマホが発達してきて現金をもたないでも買い物ができるという状態に近づいている。そういう現在であるが、銀行員にはちょっと悩ましい話を聞いた。

それは銀行の窓口業務とかは近い将来になくなるのではないかという話である。妻が毎月月に一回自宅で開いている「人形を作る会」でのこと、ご主人が銀行に勤めている人の話として銀行が不要となるのではないかという、銀行にお勤めの人の銀行未来像である。

銀行そのものがいらなくなるとは思えないが、すくなくともお金の出し入れをする担当の人員はひょっとするといらなくなるかもしれないというのはかなり現実的な心配事である。

別に銀行員に限らない。本当に人間がいなければならないというか、コンピューターに代替できない職業はなにかを真剣に考えなくてはならない時代が来ているということだ。

それに関して私は東京大学の入学試験問題をコンピュータで解かせるという研究を行っているという新井紀子さんのチームの話を妻にしておいた。新井さんは将来もコンピュータに代替しがたい仕事を人間がすればいいという考えであり、それがどこかをさぐるという目的の一環でコンピュータが東京大学の入学試験問題を解いているという。

ついでに新井紀子さんの話もしておいたが、私が新井紀子さんという人を知ったのは彼女が講談社のブルーバックスに「7歳からの微積分」という本を訳したときであり、その本の日本での出版に旧知の T さんが大いに尽力したことを知っているからである。

武谷三男の原子力観

2016-02-10 13:35:54 | 日記
岩波新書『岩波新書で「戦後」をよむ』(2015)の「死の灰」の項p.15-16にちょっとどきっとするようなコメントが成田龍一さんからされている。


武谷自身は原子力発電の推進派なんですね。たとえばその本の中には次のような文章があります。


(引用はじめ)
原子力はまだ人類の味方ではなく、恐ろしい敵なのである。・・・現代はいまだに原水爆時代であって原子力時代ではない。
(引用おわり)

将来的には原子力を利用することが可能であり、必要である---原子力を人類の敵ではなく、人類の味方にしなければならないという認識が、武谷の根底にあります。(以下略)

さて、このことを皆さんはどうお考えでしょうか。もう少し詳しい説明を成田さんはしているが、納得できるものかどうか、各自で読んでみて下さい。言葉尻をとらえて原子力云々の議論をするのではなくて深く人類のこれからある長い歴史を考えることができるのかどうかそれがキーとなるのでしょう。

ここに挙げた文章だけを読んだら、武谷三男は怪しからん奴と思われる方もおありでしょうけれども。