物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Gr"unewald

2016-02-12 13:18:04 | 日記
Gr"unewaldのことで私が以前に書いたことを抜書きしておこう。

若き日にあこがれたミツコさんから武谷(注)はサンタマリアの表情を思い浮かべる。そしてサンタマリアの絵にはほとんど笑っているものがないことに思いがおよぶ。そしてマリアが笑っていないのは、わが子キリストの未来の悲しい運命を予感していたためではないかと思うようになる。

しかし、笑っているマリアの絵がまったくないわけではない。フランスのアルザス地方の小さな町Colmarの教会にあるGr"unewaldの描いた「木リストの降誕」には明るく微笑んだマリアが描かれているという。これはGr"unewaldが当時の農民戦争に巻き込まれ、そこから抜け出してきて民衆に希望を与えるようにと描いたためだという。

武谷がこの教会をいつ訪れたかは知らない。たまたま著者もこの教会を約30年前に訪れたことがある。そのときにGr"unewaldの絵の絵葉書を数枚購入して、絵を描いている義父に送ったら、「Gr"unewaldの古典的な絵をじっくりと鑑賞した」という手紙をもらったが、そのなかに「キリストの降誕」があったかどうかは覚えていない。いつかClomarを再訪する機会があれば、武谷の話を確かめてみたい。(「武谷三男と三段階論」、徳島科学史雑誌、no. 24 (2005)から)

(注)武谷とは物理学者の武谷三男のことである。

グリューネヴァルトの絵

2016-02-12 12:41:11 | 日記
今日2月12日の朝日新聞の愛媛欄にグリューネヴァルトの絵の「イーゼンハイムの祭壇画」という記事と写真が出ていた。カラーの絵である。この写真は複製画であるが、徳島の大塚国際美術館の所蔵の絵の写真である。

これを描いた画家が16世紀の画家グリューネヴァルトであるという。ちょっとグリューネヴァルトというと私にも因縁がある。というのは1976年2月3月にドイツ南部の町フライブルクのゲーテ・インスティチュートで2か月のドイツ語の研修を受けていたが、フランスのアルザスの小さな町である、コルーマーを友人たちと訪れ、そこの教会か美術館でグリューネヴァルトの絵を確かに見たことがある。

その中に多分この「イ-ゼルハイムの祭壇画」も入っていたはずだが、覚えていない。その後、物理学者の武谷三男が亡くなる直前に書いた「あこがれ」という題の文を彼の死後読んでグリューネヴァルトのことを知ったからである。

このコルマーの美術館にはグリュ―ネヴァルトの絵がたくさん所蔵されていて、そのときに絵が専門の義父にその絵ハガキを買って送ってあげたら、返事にグリューネヴァルトの古典的な絵をじっくり鑑賞したという返事を確かにもらった記憶がある。

武谷三男との関連で言うと、武谷はこのコルマーで同じグリューネヴァルトの「ほほえむマリア」を見たとエッセイの「あこがれ」で書いている。彼の回想は若いときに憧れたミツコさんに関係しているが、ミツコさんは若くして結核のために亡くなってしまう。そのことから話がはじまってグリューネバルトがなぜ「ほほえむマリア」を描いたのかという考察に入っていく。

これはドイツであった農民戦争の悲惨さから農民の心を和らげたいとの意図のもとに描かれたのだという。

長谷川千尋記者は音楽に詳しい方らしく、オペラ「画家マティス」というのがあり、この画家のマティスは実はグリューネヴァルトのことだと書いている。そしてこのオペラを作曲した作曲家のヒンデミットはオペラ「画家マティス」で農民戦争に直面した画家の苦悩を描いているという。これは実はヒンデミットが見ていたナチスの人種差別政策への批判を含むものだったらしい。マティスはグリューネヴァルトのVornameのマティアスによるという。

nasinoとは

2016-02-12 12:20:25 | 日記
先日、イタリア在住の女性のブログのことを書いた。そのときにnasinoが分からないと書いた。少し大きな伊和辞典を引いてみてもnasinoは出てこない。だが、nasoという語があるのに気がついた。nasoは鼻のことである。-inoは多分縮小語尾だと思われる。例としてneutrinoは昔は日本語訳では「中性微子」などと訳されたが、いまではこの音でそのままニュトリーノと呼ばれている。ごく最近では日本人の物理学者梶田さんがノーベル物理学賞をもらわれた業績がニュートリーノ振動の発見であった。

そうするとnasinoは鼻のことだろうか。鼻の先が寒さでイチゴのように赤くなっているとでもいう意味だったのだろうか。私はそこのところを子どもたちの頬がイチゴのように真っ赤になっていると解釈していたのだが、そうではなそうである。

縮小語尾をつけた言葉で私が思い出す言葉はmandarinoである。これはイタリア人の友人の化学者である、フランコ・ロラがフライブルク大学のメンザ(学生食堂)で昼食に出ていた、小さいミカンを見て発した言葉である。いま伊和辞典を引いたら、別に小さいミカンとは書いていなかった。普通のミカンのことをいうのだろうか。