物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

原論における、比と比例

2016-09-16 10:40:56 | 日記
斎藤憲『ユークリッド『原論』とは何か』(岩波書店)を県立図書館で借りて来て、この書の最終章である「比例の定義と非共測量」を昨夜読んでみた。『原論』ではどのように比と比例を述べているかを知りたかったからだ。

ところが、これが読んでもまったくわからない。昔からこの『原論』の比と比例の箇所はわからなかったと見えて、ガリレイが不満を漏らしたとか、比例についてある提案したとかいうことはわかった。

現代に比と比例とをどう理解するかが、問題なのでユークリッドの時代の知識だけで比と比例を理解しなければならないということは教育的にはない。数学史ではその時代の知識だけでその時代の数学を理解しようとするのが、現在の傾向だというが、それは数学史の分野だけにしてほしい。

教育の分野では現在の知識を総動員してわかりやすくすることが大切である。しかし、「数学・物理通信」6-7に「比と比例式を考える」というエッセイを書いたのでこれを原論がどう取り扱っているかに関心があった。たまたま昨日、県立図書館に行ったので、そのときに数冊の数学の本を借りて帰ろうと思って書架を見ていたら、「『原論』とは何か」があったので、借りて帰った。

ところがまったくわからない。これは訳の問題なのか。それとももともとの原著が分かり難いのか。どうも原著が分かり難いものらしいが、さてはて?























Phobia

2016-09-15 10:32:06 | 日記
という語を思い出した。これは先日MRIの診断を受けたからである。辞書を引くと病的な恐怖症とあった。そして例えばとしてacrophobiaとあった。

acrophobiaは高所恐怖症のことである。そういえば、昔、ヒッチコックの映画で高所恐怖症の警官だか刑事の出る「めまい」というミステリーがあった。私は閉所恐怖症なので、このphobiaである。閉所恐怖症は英語でなんというのか知らない。

最近では広場恐怖症とかいうのまであるそうで、これは広場に行き、たくさん人がいると恐怖を感じるというモノらしい。そういうモノを感じる人がいるのかどうかはそういう人にはまだ出会ったことがないので、そういう人が本当に存在するのかは定かではない。だが、多くの人の中にはそういう人がおられても不思議はない。

acropolisというのはアテネにあるパルテノン宮殿がある丘だが、acroというのは高いところという意味らしい。polisは市で高いところにある市というのが、アクロポリスの名前の由来らしい。それでacrophobiaという語も生まれたのであろうか。

比と比例式は

2016-09-14 11:55:50 | 日記

直観的にわかりやすいときに使われるのではないかと義弟から指摘された。これは「数学・物理通信」6巻7号に書いた私のエッセイへの感想である。そうかもしれない。

私の調べた文献では比と比例式の突っ込んだ説明とか理由とかはほとんど分数式で与えられているという事実であった。

しかし、比と比例式は初等幾何学でも使われているが、そこまで突っ込むことをしなかった。比と比例式を分数で表すことがわかれば、初等幾何学でも役に立つということは知っている。

前にもこのブログで書いたが、比例式を分数式で表すことになじんだのは大学受験で勉強していたころ化学の計算問題においてであった。津田栄さんという化学教育者の書いた『化学計算問題の解き方』(旺文社)という本を読んだからである。だから、比例式を分数式で表すことを狭い意味の数学で学んだのではない。

その学び方のせいか、それが正しいかどうかだとか、または、その根拠とかをあまり気にしないでその事実だけを用いてきた。それを反省したのが「比と比例式を考える」という「数学・物理通信」6-7のエッセイを著した動機である。

そこからわかったのはどれも比と比例式を数学的に根拠づけているのは分数式表示の比例の表し方であるという事実だった。

もっともユークリッドの『幾何学原論』には比例式が等しいというルールである、「内項の積と外項の積が等しい」という命題(定理?)の証明が与えられているというから、それが分数式を用いないでどのように証明をされているか知りたいところである。

(注) 遠山啓さんが三角形の相似比などをどう取り扱っているかを、『数学の広場3 2次元の世界』(ほるぷ出版)で調べたら、遠山さんは比例式を分数式で表しており、また比例式とか相似比という語は索引には載っていなかった。ところが『数学の広場 別巻 数学ハンドブック』』(ほるぷ出版)「比と比例式」の項には比例式の性質があまり詳しい説明なしに出ていた。内項の積と外項の積が等しいという性質も分数式の表示での説明はなかった。これは単に「数学公式集」であるからしかたがないかも知れないが、ちょっと気になるところである。

いま気がついたが、三角比とよばれるものはすべて分数式で表されており、sin x=対辺:斜辺と書かれたものを見たことがない。すべてsin x=対辺/斜辺といった形である。もっとも三角比という名前でよばれるのはきわめて教育上は短い期間であり、すぐに三角関数を学んで以後はあまり三角比とはとよばれない。


今日は一日病院で検査

2016-09-13 17:10:42 | 日記
をしていた。脳に血栓とかの障害があるかも知れないのだといわれて病院でMRI検査を初めて受けた。MRIは狭い個所に入るので閉所恐怖症の私はいままで受けるのをいつも勘弁してもらっていたが、今日は仕方なく15分程を目をつぶって数を数えて過ごした。

5分間なら数を300数えるれば経過する。それを3回繰り返せば、15分間をやり過ごせる。ということで600まで数えて700か800くらい数えたくらいで終わったので、やれやれであった。検査結果は動脈硬化の軽い兆しはあるが、それ以外にはあまり問題点はないということで無罪?放免になった。

MRIで測る前には頸動脈のエコーやCTもあって、結構午後をそれで費やした。一年後にまた定期検査に来て下さいとのメッセ―ジをもらった。

これは眼科に定期検診に行っていたときに、頭がどっと血流で動いた感じが3分間くらいしたのだ。はじめは軽い地震がどこかであったのかと思った。しかし、自身ではなく、それでこれはどこか異常のところがあるかもしれないと思って行きつけの病院で見てもらったら、念のために精密検査をした方がよかろうということになって別の病院を紹介され、検査を受けた。

結果は特に問題点となることはなかったので、薬も何も処方はされなかった。先刻仕事場に来て今日のブログを書いている。

命の水路を掘る

2016-09-12 13:11:30 | 日記
とか何とかいう、医師:中村哲さんの放送をEテレで見た。アフガニスタンの住民の医療を見る医師として派遣されたのだが、水の必要性を痛切に感じて27キロにも及ぶ水路を掘ってその水路の周辺を農業のできる土地とした。

水があることは100人の医師を派遣することよりもいいと彼は言う。彼は別にアフガンでの平和を目指した活動をしているわけではないのだが、結果的に農業ができて自分の家族と生活できる人たちはタリバンにもISにも参加する必要がなくなり、平和に暮らしているという。

もっとも彼が開いた水路の沿線では60万人のアフガニスタン人が平和に暮らせているけれども、それはアフガニスタンの人口の2%にしか過ぎないという。だが、そういう人が少しでも多くなれば、結果的に人々の心は落ち着いてくるのではなかろうか。

タリバンに行く人たちも給金をタリバンがくれるから行くのだという。乾燥して水の供給がなく耕す畠も枯れはてていれば、食べていくためにタリバンでもなんでも傭兵になるのだという。

もし水があって、農業ができれば、誰が好んで兵隊になるだろうか。考えさせられる放送であった。私はこれを深夜12時からの再放送で見たのだが、ゴールデンアワーにこの放送はあったはずである。

数学・物理通信6-7の発行

2016-09-12 13:01:20 | 日記
日曜日にもう一度6巻7号の自分の原稿を読みなおして一つだけ文献のページ数が落ちているのを見つけた。それを修正して先刻ようやく発行となった。

9月5日に日付の入った6巻7号である。一週間おくれで発行をした。今回は6巻8号はしないつもりである。

S さんの原稿が一つ積み残しになったが、これは許してもらおう。他に原稿があれば、発行してもいいのだが、今回は発行するに値する原稿が他になかった。

私ももう一つ書きたかったが、他の書かねばならない原稿があるので、それを書くのは控えた。

つづけて3号の発行という訳ではないので、燃え尽き症候群が今回はない。

Cauchyの複素解析は

2016-09-10 12:49:22 | 日記
実積分を複素数を使って統一的に説明しようとする目的のためにつくられたとは高瀬正仁さんの主張である。たぶんそれはまちがいがないのであろう。

ある通俗的な複素解析の本だったかでも、複雑な実積分を複素数を使って導くために複素解析がつくられたという風に書かれたテクストがあって、そうかもしれないが「その他の要素はないの?」とちょっと思ったものだが、少なくともCauchyに関する限り、正しかったということになる。

もっとも複素解析はCauchyだけの手でできたわけではないので、そういう意味では通俗本の説明は簡略的に過ぎたわけである。しかし、Cauchyは明確な目的をもって彼の複素解析をつくったのであった。

老眼鏡

2016-09-10 12:16:56 | 日記
特別に老眼鏡を使っている。これは以前にはレンズの上の部分と下の部分とを使い分けるタイプの眼鏡を使っていたと思うが、それだとやはり日常生活でちょっと困ることがある。

それで普通のドライブとかテレビを見るときとかのための眼鏡と仕事用の眼鏡を別に眼鏡屋さんがつくってくれたのだ。はじめはあまり用がなかったが、いまでは老眼鏡がないと仕事ができない。

パソコンの画面の字が見え難くなっているのだ。だから、パソコンで仕事をするときにはあわてて眼鏡を変える習慣がついてきた。

もっともこれでは遠くのものがあまりよく見えないので、日常生活ではつかえない。新聞を読むときは眼鏡をはずして読むことが多いように思う。これは老眼鏡が手元にないことにあろうか。

妻は白内障の手術をする前はルーペを使って新聞を読んでいたが、いまはそれもあまり必要ではないらしい。白内障では視野が狭くなるのだと思う。


susumukuniさん

2016-09-10 11:38:10 | 数学

という方がアマゾンで数学の本のたくさん書評されている。いわゆる研究者ではない人かと思われるのだが、世の中にはとてつもなく数学がよくできて、分かる人がいるものだと感心する。

このブログで感心したなどと書いた、書評家はゴルゴ十三さん、雑学家さんであったが、susumukuniさんで3人目である。

私などこのsusumukuniさんの書評など読んでもまったくわからない部類だが、高瀬正仁『近代数学史の成立―解析篇』(東京図書)を読んだ後に、susumukuniさんの同書の書評を読んだら、ちょっとは頭の整理ができた気がした。

高瀬さんにはもちろんあったことはないが、具象数学が好きな数学者だということはわかった。だから、経済的な余裕ができたら、ぜひ高瀬さんの書を集めて読んでみたいと思っている。

『四元数の発見』を海鳴社から出したときに、その印税の一部で『オイラーの無限解析』『オイラーの解析幾何』(海鳴社)を購入したが、しかし購入してしまうといつでも読めると思うせいか、あまり読む気が落ちるのはいつものことである。


オクトバーフェストin Matsuyamaに行ってきた

2016-09-09 12:14:23 | 日記
昨夜、友人と二人でオクトバーフェストに出かけてビールを飲んだ。バンドが舞台で音楽を演奏していたが、ちょっと離れたところにいたので、まったくのBGMであった。

一杯、1400円の生ビールは安くはない。だが、産地空輸のビールの値段だし、結構大勢の人がこのオクトバーフェストにたずさわっているようなので、彼らの給金を出すのにはしかたがなかろうか。

昨日は木曜日で天気も雨の心配はなかったので、まあまあの出であったと思うが、それでも満席で座席を見つけるのが難しいとまではいかなかった。来年以降も続けてオクトバーフェストが行われるかどうかは今回の営業成績で決まるのであろう。

できるだけ数年は続けてほしいものである。そうするとそれを楽しみにして、毎年顧客が来るようになるだろうから。

バイエルンの6つのビール醸造所からのお店があったのだが、どれがお勧めかは私にはわからない。

ソセージとかザウアクラウトと思われるものや、ポムフリとかもあったが、ソセージはもちろん悪くはないが、ザウアクラウトやポムフリはもう一つ物足りなかった。

6時過ぎに行って、8時半頃の会場を後にした。ラストオーダーとの声が聞こえていたころであった。
夜も時間が進めば、涼しくなってくるので、気持ちがよくなるが、その頃には九時の閉店がくるであろうが。

他人から見た武谷三男2

2016-09-08 11:22:29 | 日記
は8月20日に高松であった、徳島科学史研究会での私の講演のテーマであるが、それに対応した論文の草稿を準備しはじめた。とはいっても本を読んで、それから私の注目する項目を書き出しているだけだが、そのためにここ数日は『思想を織る』(朝日新聞社)とか『聞かれるままに』(思想の科学社)を読んでいる。読むこと自身が楽しいけれども。

あくまで傍証にすぎないのだが、武谷の心の底に触れたいと思っている。特に『聞かれるままに』には「雇ってくれる人はなかった。大学や企業にはね」という聞き手への答えがある。

彼はそれだからどうだとそれ以上には敷衍していないが、そこに深い怒りとか悲しみが現れているというのが、私の感じである。そんなことを感じだしたのは「武谷三男の不幸な経歴」という節を「他人から見た武谷三男2」の論文に一節として入れようと思って本を読んでいるからであろうか。

ある人たちには、すでに武谷は攻撃されるべき権威として存在しているように思われていて、彼を非難、攻撃または貶めることで自分の書物を売るというような対象として見られているのだが、そうではなくて彼はあくまで大日本帝国の一人の被害者でもあったという観点がないと本当のところはわからない。

だから、彼の心の深層に迫ることがやはり重要となってくるのだと思うようになってきた。

数学・物理通信6-7

2016-09-07 12:18:28 | 日記
を発行する準備ができた。著者の点検はすんだのだが、私はいつも言うように慌て者なので、数日をおいておきたい。来週早々に発行の予定である。

これは一部は印刷して自分で最終点検するのだが、そのプリントがまだしてないからからである。そろそろトナーがなくなりかけているので、プリントの途中でとまったらどうしようと心配で、もっともつぎの替えのトナーは購入済であるから、印刷ができなくなったら、トナーを入れかえたらいい。

「数学・物理通信」も6巻5号で通巻50号となったので、6巻7号は通巻でいえば、52号目になる。投稿規定をすこし変えたいと思っている。それは自由投稿を受け付けているのを同人と同人の推薦のある人にだけに投稿資格を限りたい。

いままでに、いろいろな一般の人から投稿があり、その掲載の可否を編集者が決定しているのだが、その判断がなかなか難しくなっているから。

同人の定義があまりはっきりしないが、通信をメールで送っている人を同人と定義する。そして、同人の推薦があれば、大体そのままで掲載をするつもりである。

投稿する人もいろいろあり、編集者の私が面識がない人でも、自分がどういう者かの自己紹介もしない人もある。それでそういう場合にはそういうことを書いていない投稿者にはまず自己紹介をすることをお願いしている。個人的な仲間内のサーキュラーだということを理解していないのかどうも儀礼に欠けると思われる人がある。

普通の学術雑誌なら、所属だけで自己紹介など不要であろうが、これは個人的にやっているサーキュラーである。当然のように論文だけを送りつけて来て、審査をしないのでしょう。だから、掲載するのが当然でしょうみたいに振舞われると、こちらとしては当惑してしまう。それも結構長い論文だったり、内容がちょっと怪しげだったりする。

私の面識のある人なら、名前だけで十分だが、そういう人でない人から自己紹介なしで投稿されると当惑する。それでも意味があると考えた論文は掲載してきたが、どうもあやしい、またはナンセンスと感じたものはお断りをしている。その採否はほぼ半々である。

だが投稿を同人に限るとすれば、編集者の採否の決定を迫られずにすむ。もっともはじめから同人誌の色彩はとても濃いのだから、投稿された論文を掲載しようと掲載を拒否をしようと、どうしようと編集者の勝手ではあるはずなのだが。

最近、あるシリ-ズの論文の続きを掲載してくれないかという読者からの要望が届いた。これは共同編集者の N さんの数学の論文であり、N さんに昨日あって話したら、原稿があるそうなので、今年中に論文第3部を掲載できるのではないかと考えている。

いろいろなことが起こるものである。また人々の関心も広い。

物理におけるアナロジー

2016-09-06 12:20:13 | 物理学
「物理におけるアナロジー」というテーマで簡単な即席の話をしたことがある。それは私が E 大学の在職していたころに、主宰してやっていた、高校と大学の連携の会合においてであった。
 
実はそういう話をするという予定ははじめなかったのだが、お願いしていたトークをする講師が急に都合でできなくなったというので、世話人をしていたため急きょ穴埋めの話をしたのであった。
 
その4ページほどのメモが私のファイルから最近見つかった。それで、少し時間をとってそのメモを補充したエッセイを書いてはどうかと思い始めている。これは別に私には限らないことだが、力学での振動を表す微分方程式はまったく同じ形の方程式がもちろん変数や定数を変えて例えば電気回路で成り立つということは良く知られている。
 
そういう類の話をできるだけ集めてみたいという希望をもっている。アナロジーが発見の論理として有効なのかどうかはわからないが、そういうものの見方を人はする。
 
たとえば、放射性の元素の数が半分になる時間を「半減期」というが、それと同じように物質に光が吸収される現象を記述する方程式で光の強さがちょうど半分になる物質の厚さを「半価層」という。すなわち、光の吸収を表す微分方程式は放射性元素の崩壊の方程式とまったく同じ形になる。
 
結晶物理学で無限に大きな結晶を考え、その結晶で並進と回転不変性を仮定するが、それは宇宙物理学では宇宙の等方性と、一様性を仮定する。これは分野はちがうが人間というものは同じようなアプローチをするものだということを示している。そのような項目を20ほど上げて簡単に説明をしたのであった。
 
そういう、「ものが変わっても本質が同じ」というか、そういう考え方を強調したのは物理学者の高橋秀俊さんだった。ほかにもその同じようなことを考えた人はたくさんおられるであろう。また大学受験のための参考書にもそういう記述があるものもある。
 
私がその本で勉強したことはないが、培風館から出されていた高校物理の参考書に吉本市先生が、力学の並進運動の運動方程式と剛体の回転運動の運動方程式が同じ形の式で表されることを強調されていたことを知っている。
 
もちろん、並進運動の質点の質量 m は剛体の回転運動では慣性モーメント I に置き換わるし、変位を表していた x は回転角 \theta に置き換わる。また力 F は力のモーメント N におきかえられる。
 
こういったアナロジーを使った物理の理解の仕方もある。別にこういう理解ができないといけないということもないが、そういったエッセイを書いてみたいという気持ちはもち続けている。

(2023.11.14付記) 
私の勤めていたE大学の工学部で同僚だったA教授の学内での講演を聞いたことがあるが、流体工学が専門だったA教授も同じような見解を話されていた。

彼は流体工学が専門だが、電磁気学にも同じようなものの見方ができるというような話だったかと思う。A教授はその後E大学の学長までされた方であった。

数学史の本

2016-09-05 10:18:12 | 日記
これは先週の土曜日に比と比例式についてエッセイを書いていたので、数学史の本を数冊見た。しかし、なかなか数学史というのは通史となれば、特定の題目についての歴史の本ではないのであまり興味がある記述がない。

これはしかたがないともいえるが、1週間か2週間前に書いた高瀬正仁さんの「近代数学史の成立」(東京図書)のような本はやはり書きにくいということだろう。

私は数冊しか数学史の本をもっていないが、これでは数学史をする人はつらいという感じをもった。なんらかの問題意識をもって数学史を研究しない限り、人を魅了するものにはなるまい。まあ、私は数学者ではないし、ましてや数学史の専門家ではない。それだからどうでもいいことではあるが、そういった興味深い数学史の本に出合いたいと思っている。

オクトーバーフェストin Matsuyama

2016-09-03 16:36:39 | 日記
9月2日からオクトーバフェストin Matsuyamaが城山公園で始まった。私の所属する愛媛日独協会もこのオクトーバーフェストin Matsuyamaを後援をしているのだが、始まったことを忘れていた。

知り合いの日独協会の会員からメールをいただいて、そのオクトバーフェストが始まったことを知った。9月10日か11日までだという。ドイツ直送のビ-ルが飲めるが、やはり日本のビールと比べて倍くらいの値段らしいが、それだけの価値があるとはすでに行かれた方の感想である。

日本のビールなら、1杯500円くらいであろうか。それが1000円以上もするから、安くはないのだが、それだけの価値があると言われるのは滞独経験2年の K さんである。

やはり一度行ってみなくてはなるまい。

本来、オクトバーフェストはミュンヘンのお祭りであり、9月の最終週から10月初めにミュンヘンのマリーエンプラッツで行われる。大きなテントを張ってその下でみんながビールをのんだり、歌ったりするのである。

ミュンヘンが一番の元であるが、最近はケルンでもオクトバーフェストをしているという。そしてケルンでも相当な人が出るのだという。数百万規模の人が外国人も含めて出ると聞けばその規模が想像できようか。