物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

自己の確認と鏡

2017-05-19 10:03:47 | 日記

幼児がいつ自分というモノを認識するのだろう。いつかはするのだが。

その自己認識に役に立つものとして鏡があるのではないか。鏡に自分の姿が写ってもそれははじめは誰か自分とは違う他人だと思うのではないか。もっともそのときには自己というものもよくはわかっていないはずである。

だから自己というモノをいつ、どこで認識するのだろうか。自分の小さいときのことは覚えていないので、自分の子どものときが一つの機会になるのだが、それはなかなか子育てに忙しく、その自己の確認がどの時点だったかはなかなか判定する余裕はない。

心理学の研究者でスイスかフランス人のピアジェという学者がおり、幼児の数の概念とか量の概念とか空間の概念をどのように獲得していくかについて調べた。

もっともその本をあまり読んだことがないので、ちょっと図書館がどこかで探して借りて来なければならない。

それはともかく幼児がどこで自己を認識するのかとか、鏡に写った自分の姿が自分であるということをどこで認識するのかということをしばらく考えてみるのも悪くはないだろう。


遠山啓の評伝

2017-05-18 18:23:51 | 日記

今日も朝日新聞に『遠山啓』(太郎次郎社エディタス)の広告が出ていた。すでに重刷をしたとか書いてあった。

遠山さんは大きな影響を与えた人だからその評伝が重刷になってもおかしくはない。むしろ当然であろう。もっともこの評伝に望むのはおかしいことだろうが、私は例えば「内包量の加法」についての現在の到達点とかについてどなたかに書いてほしいと思っている。

これはもっと直接的に「遠山啓の教育思想と実践」という副題がついた『子ども、ばんざいだ!』(数学教育研究会)を読んでこのブログでそれについての私の感想を書いたときに著者の O さんからその通りだと言われたのだが、それでも私の心の中ではまだ解決がついたとは言えない。

矢野 寛(ゆたか)先生が愛媛県数学協議会から出された出版物にいろいろ書いてくださったのだが、まだ私の勉強不足でこれが十分に了解できていない。

そういうことはあるけれども、それは個人的な問題であって、この『遠山啓』はなかなか優れた書である。編著者の友兼清治さんが3年間をかけて編著されたご苦労はおよそ報われているのではなかろうか。

 


メガネと科学

2017-05-18 12:24:24 | 日記

近視の眼を矯正するメガネを最近新調した。このことと科学との関係をちょっと記録しておきたい。

前にメガネをつくったのは14年前のことだったが、そのときにメガネの取り扱い方について注意を受けたのを覚えている。それはメガネをもつときにはどちらかの「ツルの片一方の部分だけをもたないように」という忠告であった。それは片一方のメガネのツルだけをもっているとメガネの他の部分の重さで力のモーメントが働き、ねじの部分に負荷がかかってよくないというのであった。もっともこういう合理的な説明がついていたかどうかはあまり覚えていない。これは力学の初歩の知識かもしれないが、なるほどと思ったことであった。

今回はその注意に加えて「メガネを洗うときには水で洗ってください」という注意であった。もちろん熱湯で洗う人はいないが、温湯で洗うのがいいのかと思っていたのでちょっと意外だった。

メガネの素材は以前はガラスだったが、いまはプラスティクになっており、紫外線カットのためのコーティングがされている、湯でメガネを洗うとコーティングの部分とメガネの本体とが材質が異なるので、その膨張率が異なるからメガネのレンズに亀裂が入る恐れがあるという合理的な説明であった。

これは「どうして」と聞いたから教えてくれたのかもしれないが、メガネ屋さんで感心させられたことの一つである。もっとも昔使っていたメガネはネジが緩んで来て小さなドライバーでしばしば絞めたりしたことがあったが、ここ10年以上使ってきたメガネはネジが緩んだりしたことはなかった。

それでもそういう注意をメガネの取り扱いとして教えてくれる、店員さんたちのちょっとした科学教育の素養を感じさせられたことであった。

ちなみにメガネを取り扱う人たちに必要な国家資格というのはまだないそうだが、それでもそれなりの教育とか資格が必要であるらしい。私の知人・友人の一人にそういう学院で教えておられた方がいると私の方でも話してから、店を出た。

そういえば、先回のメガネをつくったときにはドイツ人の R 氏の弟さんがドイツでのメガネのマイスターであることとか、もし彼が松山に再度来たら、このお店に連れてきてもいいなどと話した覚えがある。メガネのマイスターはOptiker(オプティカー、光学家)と言われる。

ドイツでマイスターは尊敬される地位の一つであるのは言うまでもない。


考え方とチャート式

2017-05-17 17:33:12 | 数学

藤森良蔵のはじめた考え方は受験のための塾であろうか。同じようなことを星野華水がはじめたのが、数研出版の源らしい。

だから、私などが思っていたものは唯一ではなかった。いまでは考え方は知る人がある程度以上の年齢の人でなければ知らないであろうが、チャート式数学とかチャート式物理とかまであるようだ。これは数研出版という出版社が存続していることと関係があろうか。

一方、考え方の方は考え方社という組織は昭和30年代半ばまではあったが、出版社としては存続できなかった。もっとも昔の人にはチャート式よりも考え方の方が有名かもしれない。

私は藤森良蔵さんは知らないが、藤森良夫さんの高校の数学の学習参考書はもっていた。現在でもこれをもっている。藤森良夫さんがその後どうされたのかはよくは知らないが、東洋大学の数学の先生として勤められたというふうに聞き及んでいる。

仮説実験授業で有名な、板倉聖宣さんが藤森良蔵さんのことを書かれた本があるのを知っているが、そのころはまだ良夫先生が存命であったらしく、板倉さんは良夫先生から考え方社の出版していたい書籍等の寄贈を受けたというふうに書かれていた。

だからひょっとしたら、考え方社の出版された書籍等が板倉さんのおられた国立教育研究所に保管されているのかもしれない。


不老不死

2017-05-17 17:22:49 | 日記

などということが本当に起こるとはもちろんあり得ない話ではあるが、医学の研究が進み、それである程度若返りとか老化防止ができそうになってきたという。

野菜とかの植物性のものを食べて、気持ちのいい友だちとか家族とかをもっていると、長生きするという。ストレスがいけないのだという。その点でいうと私など好きなことをここ10年くらいしているので、ストレスは感じたことがあまりない。家族にも恵まれている。

孫も生まれてかわいいかわいいとか言っているうちに一日一日が過ぎ去っていく。それでも高校数学程度の内容の本を書くとかWebのサイトをもちたいと思っている。

自分のできることをできるだけやってその成果を残しておきたいということだけが望みである。もっともそれができる前に命が尽きるのかどうかは神様でもわからない。


免許の更新

2017-05-17 17:13:36 | 日記

今日の午後に車の免許の更新に行った。受け付けして費用を支払い、視力の検査をした後で写真を取り、その場から出てしばらく待っていたら、新しい免許証ができてきて、そのまま帰ってもいいということで帰ってきた。

この三年間は特に警察沙汰にはならなかったので、簡単であった。前のときにはなにか映画か何かを見せられたような気がする。最近は自動車教習所で高齢者講習を受けるので、免許センターでの事務は簡単になった。

帰ろうとして、車の方へ歩いていくと、昔の同僚の A さんに出会った。それくらいで特に変わったことはなかった。帰途にそろそろ「数学・物理通信」の編集後記を書いてもらうために N さんのおられる施設に立ち寄った。


AIと羽生三冠

2017-05-16 12:53:19 | 日記

とはどういう関係にあるのか。今朝、朝日新聞の広告欄に「人工知能は人間を超えるか」というタイトルの羽生三冠へのインタビュー記事が載っていた。

これがなかなか興味深い記事であった。「「問い」のなかにこそ人間の力がある」というサブタイトルがついていた。

これを要約することは私には難しいが、重要そうなところを抜書きして見れば、

人間の知能とAIとは違いがあり、その違いを知って有効に活用するならば、AIは人間の暮らしを便利に、豊かにしてくれる。しかし、忘れてはならないのはAIも万能ではない。AIによって示される方策は「有効である可能性が高い選択肢」であって、「絶対の正解」ではない。だからAIによってもたらされる情報の中から意味あるものを見つけ出す「価値判断」は人間の仕事だろうし、AIに何を考えさせるのかという「問いを立てる」ことも人間の仕事でしょう。

AIは人間の脳の解明に限りなく近づくだろうし、AIと脳の仕組みの解明とは互いに相互依存しているだろう。

あまりいい要約ではないが、関心をもたれた方はhttp://t.asahi.com/habuai/ をご覧下さい。

なかなか羽生さんは頭のいい方ですね。感心しました。


ランソムウエア

2017-05-16 12:35:18 | 日記

というコンピュータウイルスが猛威を振るっている。私のパソコンもそれにやられたかと思った。

というのは私が長年書いて来た『四元数の発見』の原稿のファイルが昨日瞬時に消えてしまったからである。どうもパソコンの不調が続いているのでそのための一環の故障であるらしい。

USBメモリにそのデータは保管してあるとは思うが、どうも心もとない。大きなファイルが瞬時に消えてしまうという私には理解できないことが起こった。

コンピュータウイルスに話を戻すと、パソコンが動かなくなるという事態になってから、パソコンを動くようにするために3万5千円くらいの身代金の要求がくるというウイルスである。そういう仕事をしている人がいると思うとちょっと気が確かなのかなとは思うが、世の中にはそういう人がいなくなるということは残念ながらありえない。残念である。

ransom moneyとは身代金という英語である。普通は人質hostageを戻してほしければ身代金を払えというのが典型的な誘拐事件である。ransom moneyとかhostageとかいう、物騒な英語を覚えたのは30年くらい前に一時講読していたアサヒ・ウイクリーAsahi Weeklyという日曜ごとに発行される英字と日本語の混ざった新聞から学んだことである。

 


笹退治の現状

2017-05-15 12:10:44 | 日記

数年前に「庭の笹退治をした」とこのブログに書いたことがあった。

そのときに面積的には広範囲に笹の地下茎を掘り起こしたのだが、それでも庭の隅の一角の笹の地下茎の除去ができていなかった。

今年は数年ぶりにこの笹退治を再開した。今回は日曜日の午前か午後の数時間を笹退治に費やしている。まだ完全に除去できてはいないが、一番の笹が生えてきているもとの笹の牙城に迫っている。

これはやはり数年前の笹退治のお蔭で笹が生えてくるところがかなり制限されているから、現在では笹の生えているところが限定されているためにようやく笹の牙城に迫れている。

それでもまだ2回や3回では片がつかないとは思うが、梅雨に入る前に片がつけばいいがと考えている。

もともと妻の叔母が私の家にやってきた時に「庭に笹があると風情があっていいわね」と言ったために妻が笹を植えたのだが、あの叔母の助言を聞かなければよかったのにといまは妻が悔やんでいる。というのは笹は地下茎でどんどん広がってしまうからである。

ときどき訪ねて来て笹の緑を鑑賞する場合には風情があっていいのだろうが、その庭の持主にとっては庭に少し植えたためにどんどん広がり、そして、いまではその除去に苦労している。


ゲノム編集

2017-05-15 10:55:26 | 日記

で病気が治る時代になってきている。昨夜のNHKの「サイエンス0」を見たら、エイズをゲノム編集で治すことができたという人にインタビューしていた。

まだ、日本では認められていない治療法かもしれないが、いずれそのうちに日本にも普及してくるだろう。エイズは人の免疫力が落ちてくる病気だが、最近ではその免疫力を低下させる元のところをゲノム編集で再生させるというふうなことができるようになった。

アメリカで何十年か前にエイズにかかって、たくさんの薬を飲んでいた人が薬を飲まなくてもいいように回復したという人にインタビューしていた。

ガンだってそのうちにゲノム編集によって治る時代がくるのもそう遠い話ではなさそうである。

もっともよいことばかりかどうかはわからないところもある。一見いいことばかりだが、それが後で思わぬ事態を招かないとはいえない。そういう意味では慎重の上にも慎重であることが求められる。


まだ眠りから覚めてないが

2017-05-13 12:47:35 | 日記

いつも朝方の眠りの中で何か考えているらしい。いま書いているエッセイの原稿のはじめの部分を書き変えようとかと言ったことである。大体がとりとめもないことであるが、そういうことを考えるともなく考えているらしい。

それは私の頭の中に記憶としてとどまることもあるし、もう目が覚めてしまえば、きれいさっぱりと思い出さないこともある。まあ、大していい頭でもないのだから、何を考えていたとしてもたいしたことではない。だが、そういう習慣はなかなかなくならない。

昔からそういうふうであったかといえば、そうでもなさそうである。最近かというとどうやはり退職してからであるように思える。できるだけ夜の12時半には寝るように努力をしているので、朝は8時半くらいには目が覚める。その前の数時間にこういうことを頭で考えているらしい。

困ったこととも言えないので、しかたがない。それだけできるだけ日中は集中しているともいえようか。


AGFA

2017-05-13 12:34:15 | 日記

と聞いて、ドイツでフィルムをつくっていたメーカーにagfaというのがあったことを思い出した。その当時のドイツのフィルムはコダックかフジかアグファであった。

日本人の私はフィルムはフジを買うことが多かったが、アグファはドイツの写真では写りがいいと言われていた。フジはみどりとか青色がよく、コダックは黄色がよくでると言われていたように思う。

いまではフィルムの写真などなくなってしまったかもしれないが、1970年代半ばのころだから、ディジタルの写真などまだなかった。

それはそうとAGFAだが、アップル・グーグル・フェイスブック・アマゾンの頭文字だという。いずれも米国発祥の企業である。この言葉を今朝新聞を読んでいて目に留まった。

最近はAIだのビッグ・データだの横文字が多いが、そういう一環であるかもしれない。


M'etro, boulot, dodo

2017-05-12 13:14:28 | 日記

dodo とはフランス語で dormir 眠るという幼児語である。boulot は travail 仕事である。もう一つなにかあったのだが、忘れてしまった。

寝て、仕事に電車で通ってということを幼児の言葉みたいないう決まり文句だったのだが。もう一つはm'etroだったか何だったか。

いま仏和辞典のMetroを引いてみたら、出ていた。M'etro, bulot, dodo(通勤、お仕事、ねんね)だとある。辞書も引いてみるものだ。これは都会のサラリーマン生活のの単調な切なさを表した言葉だとある。

何十年もラジオのフランス語講座を聞いているが、このことを知ったのはここ十年くらいのことであり、そんなに昔のことではない。


心のケアの大切さ

2017-05-12 12:45:07 | 日記

心理学者になった人の講演が昨夜のNHKのE テレのTEDの放送であった。それによると体のキズを治すことは幼い子どもでもわかっているが、心のキズを治すことは大人でも知らないことが多いという。

なんらかのことから人からけなされたりして、傷ついたりした人は自分の自尊心をケアしてやることが必要だという。自尊心というのはよく分からない言葉だが、英語でのself-respectの訳だった。それでようやく日本語の自尊心という言葉の意味がわかった。

私にはあまり自尊心というものがない。本当にないのかどうかは自分でもわからないが、あまりそういうモノをもたないようにしている。だが、そんな私でも人からあまりあしざまに言われるとくじけてしまうことがある。私にも人並みには自尊心があるのだろうか。

自尊心をすこしでもみたすこととか、気分転換を2分間でもいいから図るとかいうようなことであった。根をつめてくよくよしているとますます傷ついてしまうという話だった。そのことは身体的な影響も与えるということだった。

あまり人とは論争をしたくない。人との論争では相手を徹底的にやっつけることができたしてもそういうことはしたくない。少なくとも相手に逃げ道はつくっておいてあげたい。もっとも論争の相手が自分で自分のつくった穴に陥った例を知っている。この場合には他人である私が自分と同じような考え方をするというふうに勝手に思われたのであった。


南方熊楠 生誕150周年

2017-05-11 12:59:37 | 日記

だと先週の日曜日の朝日新聞の読者欄に荒俣宏さんが書いていた(注)。けた外れの人物だったということらしい。そのことは別にいいことだと思うし、別に熊楠の研究が流行ったり、出版物が発行されたりすることは大いに結構である。

だが、私などは熊楠などとは違うが、武谷三男とか遠山啓とかの研究がもっと進むべきだと思っている。熊楠を掘り起こしたのは鶴見和子さんだったという。この研究で鶴見和子さんは朝日賞を受けたはずだ。

吉本隆明の全集が昌文社から発刊中である。彼の全集が出るためには彼の著作とかエッセイとか論文とかを丹念に集めて整理したある編集者の尽力が昌文社を動かしたとどこかで読んだ。

前にもこのブログで書いたことがあるが、吉本隆明全集の発行にかかる費用は2億数千万円だと見積もられていると新聞だったかで読んだ。それこそ晶文社は社運をかけて全集の発行をしている。

同じようなことが遠山啓とか武谷三男には起こらないとすれば、それは日本の大きな損失であろう。

(注)ときどき私に「あなたとよく似た人がテレビに出ていたよ」と言われる。「ああ荒俣宏さんですね」というのだが、彼は私よりも8歳も年下である。もっとも世間的に有名なのは荒俣さんであることはいうまでもない。