吉岡斉さんの『科学者は変わるか』(社会思想社)を県立図書館で借りて読んでいる。なかなか批判が鋭いので、吉岡さんの批判にたじたじである。
実践者的ではないと自ら言われているが、それにしてもなかなか根本的な批判が随所に出てくる。以前もこの書を借りて読んでいたが、十分読まないうちに返却時期が来たので、しばらく時日をおいてまた借りている。
私は武谷三男の研究者であるので、武谷批判として何が書かれているかに特に、注意をしている。ところで吉岡さんにしても最近『昭和後期の科学思想史』に重厚な武谷三男論を展開している、金山浩司さんの武谷批判にしてもそれはあたっているのかもしれないが、そういう批判を受けるようになった武谷三男の提案したいくつかの概念はけっこう興味深いものであり、そういう概念を提案したこと自体がやはりある種の創造性だと肯定的に思うようになった。
批判は批判として別に存在意義があるのかもしれないが、それでもそういう新しい概念なり、考え方を提唱するというのはやはり創造性だと思う。ある概念が提唱されたら、それは提唱される以前とはもちろん事態は違ってくる。そしてその概念が少しでもポジティブな意味を持つならば、それは批判されることがあってもやはり意味がある。
具体的に指摘をすると、技術論として技術を「労働手段の体系」とする定義と、「客観的法則の意識的適用」とする定義がある。私はこの適用説と言われる技術の定義が出た段階でこの技術の定義が正しいかどうかとは別にすでに労働手段の体系説しか技術の定義がなかった段階よりは進んでいると考える。それはどちらかが正しくてどちらかが正しくないという決着がたとえついていなくても。
それはどちらの定義も他の定義を考慮することなしにさらに考察することは許されない段階に入ったからである。
自然認識についての武谷の三段階論にしても、それが提唱される以前とされた後では考え方の範疇が広がった、すなわち自然への見方が、豊富になったと考えるべきだと思う。それは三段階論に賛成とか反対とかとは別のことだと思う。そして、一度、武谷三段階論が提唱された後は、それがないときとは事態がまったく異なっていると思う。
だから、外国でたとえば武谷三段階論がもし知られていないのならば、日本人は外国の科学者よりもこの見解を知っているという点で有利な点をもつ。
もちろん、他国の科学者が別の独創的な考え方とか見解をもっていれば、それをもし知らないとすれば、その分だけ日本の科学者はその点で不利になるのはしかたがない。だから、お互い様だと思う。
ただ、日本では外国で生まれた概念とか新しい考え方とかは割合に早く日本に紹介されることが多い、ところが日本でオリジナルな考え方でも外国に知られるのは時間がかかるという傾向にある。これは日本ではオリジナルな考えとか概念であっても自国で生まれたものを素直に日本の中で評価して、その普及に日本人が努力するという傾向が少ないからに他ならない。日本人の自己主張のなさだと言ってもよい。
なんでも一度ヨーロッパとかアメリカの科学者とか科学界の承認を一度経由しないと受け入れられ難いという後進性がある。
現在は21世紀で、20世紀前半のそういうふうな後進性がすでに克服されているのならば、大いに結構なことであるが。
(2017.6.1付記) たとえば、数学教育協議会の提唱する「量の理論」とか「水道方式」とかは実は世界に誇れる業績であるが、これが世界の教育界において一般的な共通概念になっているかどうかは疑わしい。そういう概念をすでにもっている日本の教育界は他の国と比べて進んだ立場にある。これはこういった概念に批判的な立場をとるかどうかというかとには無関係だと思う。そういう概念が提唱された段階では、そういう概念が存在しなかったときとはもう同じではない。
そういう歴史観を持たない人とは議論をしたくない。これは「量の理論」とか「水道方式」に批判的かどうかとは異なることである。そういうある意味で心をオープンに広げた態度をとるべきだと思う。