物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

非正規雇用者

2017-11-18 11:41:18 | 日記

を正社員にする会社も少しづつ出ている一方で日本を代表する三菱UFJ銀行は正社員を減らすという。これはこれからAIによってひとがいらなくなることを見越したものだという。

自動車産業は正規雇用者を正社員にすることを実質的に拒否する方向で動いている。一方で資生堂とかその他いくつ科の会社は非正規の雇用者を正社員にしたという。これはNHKのクローズアップ現代で取りあげていた。

将来的には働く人が少子高齢化で少なくなるのにそれを見越した雇用の正規化をする企業がある一方で、以前として非正規雇用を続けようとする企業も多い。日産にしても最近では生産自動車の10%しか国内で売れていないという。それが最終検査の軽視の原因であったかもしれない。

世界で売れている自動車もいつ売れなくなるかもわからない。そうだとすると、非正規雇用を続けてもし車が売れなくなったら、すぐに非正規雇用者の首を切ったら、会社への打撃がすくなくなるだろうか。そういう判断が働いている。

少し前に私がこのブログで書いた正規社員が収入をある程度保証されて、車を買うかもしれないとの予想は自動車会社はしていないということだ。それにその国内販売はもう主要ではないとの判断があるのだろう。しかし、そうだとしたら、非正規雇用を続けることで、自分で自分の首をしめていることになるのはしかたがない。

 


「微分して、積分を求める」

2017-11-17 12:31:48 | 数学

のエッセイのシリーズ2に現在、筆を入れている。これは前に書いたエッセイを改訂して、数学・物理通信に載せたいからである。もちろん、このシリーズのエッセイはいまのところシリーズ3まで予定されている。もっともこのシリーズ3はまだまったくパソコン入力してはいない。

すぐにこういうふうにシリーズになってしまう。別にそういうふうにしたいと考えたことではない。自然にそういうふうに自己発展してしまうのである。よく作家さんが自分で登場人物を設定するのだが、途中から小説中の人物が一人で動き出してしまうなどと書いていたりする。それをそういうことなどあるものかと疑っていたが、それに近いことが自分に起こるとは思ってもいなかった。もっとも私の場合には別に大したことではないので、そんなに窮屈になることはない。

話は急に変わるが、先日数学・物理通信の共同編集者である、N さんを訪ねたとき、彼は級数の収束するかどうかを調べる収束半径という概念がどういうところから出てきたのか最近分かったとか言われていた。それでそういう話を早速まとめて書いて下さいとお願いをしておいたのだが、むしろ私が聴き取りに彼のところへ出かけて書きとる方が早いのではないかと思い出している。もっとも私はこの手の話はまったくわかっていないので、すこし予備知識を自分で用意した方がいいのかなと考え出している。


発見法的に書かれた数学の本

2017-11-16 18:38:04 | 数学

発見法的に書かれた数学の本はほとんどない。

先日、私の物理数学の本を送ってあげた人から、はじめて発見法的に書かれた数学(の一部)を知ったという意味のメールをもらった。とはいうものの私にしても、自分にできたことは、それは、それは数学の中でもごくごく一部にしかすぎない。

もっと学校で学ぶ数学のもっと広い範囲が発見法的な形で学べるようにならないかと最近では考えているが、そういうアイディアはほとんど浮かんで来ない。数学者というのができるだけ結果をきれいに書くという教育を受けるものだから、発見法的にテクストを書く人などほとんどいない。

もちろん、それでも数学の本にも良し悪しがあり、ある微分方程式の本を書いたS先生から、その著書をもらったことがあるが、その人の微分方程式の解き方の詳細は懇切丁寧なのだが、それでもなんだか見通しが悪くて困った。

同じことを他の数学者の書いた微分方程式の本を読んだら、計算は逐一にはしてなかったが、見通しがよくて論理的はそちらの方がすっきりしているということがあった。

なかなか難しいものである。最近、高木貞治著の『解析概論』をときおり、ひもとくことがあるが、ベクトル代数のところでのベクトル積の定義などはどうも天下りで、とてもいい記述とは思えない。『解析概論』の解析関数の章はなかなかいい書きぶりだと思うのだが、やはり章の内容によるのかもしれない。

もっともベクトル代数を『解析概論』で学んだとかいう人はあまり聞いたことがないので、無害なのかもしれない。

 


フリクション・ボール

2017-11-16 12:10:19 | 科学・技術

消せるボールペンである、フリクション・ボールがほしくなって、近くのスーパーにでかけた。しかし、ここにはなかった。しかたなく、ふつうの赤のボールペンを買ってきた。

 念のために支払いのとき、フリクション・ボールをおいていないか尋ねた。探してくれたが、置いてはいないとのことだった。これはいつだったかNHKのテレビで見たのだが、ヨーロッパでこれを売り出したということを見た。もっともかなり値段の高いペンということだったが、いまでは数百円で売っている。

もっともこれをいわゆる100円ショップで購入できると考えたほうが、間違っていたのだろう。大げさに言えば、このフリクション・ボールがなければ一日だって過ごせないくらいの感じである。


九九、八十一だっけ

2017-11-16 11:50:06 | 数学

小学校の低学年のときに覚えた九九だが、やはりこの年になって来るとあやしくなってくる。「九九、八十一」だったかどうかががあやしくなって正しく覚えていたのか疑問になってしまった。

9=10-1であるから9*9=(10-1)*(10-1)=100-20+1=81であることを暗算で確かめてようやく間違っていないことで安心した。これは代数の(a-b)^{2}=a^{2}-2ab+b^{2}を応用して確かめたものである。

これなら、8*8=64なども同様に確かめることができる。8=10-2であるから8*8=(10-2)^{2}=100-40+4=64である。すなわち、「ハ八、六十四」であることも確かめられる。


T さんからの知らせ

2017-11-15 12:10:56 | 日記

日本経済新聞に載っていた記事をコピーして T さんが知らせてくれた。それは「読み、書き、数学」題するエッセイであった。

そのエッセイには、のっけからこんな問題が載っている。「船上に26匹の羊と10匹のヤギがいる。このとき、船長は何歳でしょう?」

これは40年前に、数学教育を専門とするフランスの研究者がこの問いを小学校低学年の子どもたちに投げかけた。すると、大多数の子どもが「36」と答えたという。

このエッセイはもっと続くのだが、これは数学教育の良し悪しの問題なんだろうか。そこが問題なのではなかろう。

まず大人は「子どもである私たちに真面目な問題だけを出す」という前提があるのであり、それを疑わせるような問いを大人がするはずがないという前提を子供は持っていることが原因かもしれない。

そうだとすると、羊の26匹とヤギの10匹は船長の年を推量する何らかのヒントなのではなかろうかと子供が考えていたとしても不思議ではない。

そうだとすると、単に問題から出てくるはずがない船長の年齢との因果関係があるのではなかろうかと推量して36歳と答えたのかもしれない。単に数学教育の問題にとどまらないことになる。

そういう問を出したときに、「疑問があれば問いを出した人に質問することが許されているのか」だとか、そういうことも気になるところである。「そういう前提があるのかそれとも問答無用に答えを求めているのか」。そういうところも気になる。

およそノンセンスな問いを出す大人の存在を普通の子どもは予想していないだろう。すなおな子どもは意味がある問いだとして、一生懸命に考えてその問いに出てきた羊とヤギの数をたしたのかもしれない。これはもちろん、数学以前のことであるが、そういうことだって考えねばならない。

私の研究している、武谷三男は「人から嘘をつく権利を奪ってはならない」と主張して、多くの人から非難をされたが、ウソを平然とつくのは政治家のならいである(注)。だが「人からウソをつく権利を奪ってはならない」と主張するときに、武谷は人には政治家は含めていないはずだ。その政治家のウソを見ぬく賢明さが人々には必要とされるということでもある。

また、政治が人を抑圧するとき、人は生き延びるためにウソをつくこともあろう。それを私は必要な生活の権利だと思う。ただ、それで他人の権利とかを大幅に侵害しないことは最低限として必要であろう。

この冒頭の問題とは無関係だが、世間にはまったく意味のない問いというのがときどきある。そういう問いで、意味がありそうに見えるものとして人生の目的はとか、生きる意味は何かというようなものがある。そういう問いは宗教とかの中で問われることが多いものだが、そういう問を出すことは無用ではないかもしれないが、私に言わせれば、そういう問いをまず出すべきではないという考えである。

もう70年以上生きて来て、そういう問いに答えることができるとは思わない。だからそういう問いをまず出すべきではないというのが私の考えである。その答えに答えられなくても、人生は生きるに値するし、また生きられる。人生とはそういうモノである。

(注) その具体的な例は2020年に東京でのオリンピックを誘致するためにリオで演説をして、福島の原発事故は完全にコントロールされていると述べた安倍首相である。


めだかのお母さん

2017-11-14 10:59:40 | 日記

は「めだか」のはずだが、私は妻が朝にめだかにえさをやろうとしていると、「めだかのお母さんしてるの?」と聞く。そうすると妻は「うん」とか「はい」とか答えている。

となりの小学生 J 君の影響で、めだかを飼うようになった。この J 君はおもしろい子で毛虫とかを掌に載せていたりする。びっくりするような子だが、なかなか個性がある。学校に行かないだとかぐずをこねて保護者を困らせたりする。

しかし、個性のある子は楽しい。


日曜日は

2017-11-13 10:44:46 | 日記

一日中を自宅で過ごす。コタツの机で新聞を読む。日曜は本の書評が載っているので、それを時間をかけて読む。だからといってその本を購入してとか図書館で借りて読むことは滅多にない。

だから、書評をそれを読み物として読んでいるのだ。これは私だけのことだろうか。多分そうではなかろう。世の中の多くの人がしていることなのではないだろうか。その辺はインテリの人の習性を知らないからわからない。少なくとも本の書評からその本を読むことへとたどり着いたということは私にはほとんどないことだけは事実である。

大体、理系の本の書評は新聞に載ることはほとんどない。もちろん、世界的な物理学者のワインベルクの科学史の本の書評が新聞に載ったことがあるが、これなど例外というべきであろう。

ところが私はこの本も読んだことがない。それくらい普通の本とは縁がない。


中性子星の合体による重力波

2017-11-11 18:28:47 | 物理学

を観測したと新聞やテレビのニュースで見たが、その解説が1日か2日前の朝日新聞に出ていた。超新星爆発のときにもしか爆発する恒星の質量が太陽と比べて数百倍の大きさならば、爆発が起っても芯のところに大きな質量が残り、それがブラックホールとなる。ところが爆発を起こす恒星が太陽の質量の数倍くらいの小さいものであれば、それは中性子星となる。中性子星からは電磁波とか光とかも出てくるので、単に重力波だけのものよりも観測ができやすい。

でもでてくる重力波はブラックホールからのものよりも弱いので、もし遠くの恒星が爆発を起こしたのたのならば、観測が難しかったであろう。ところが幸いなことに地球から1.3億光年しか離れていなかったので、今回は重力波も光や電磁波も観測できたということらしい。

先回の人類の歴史上はじめての重力波の観測は地球から10億光年以上離れたかなり遠いところからの重力波であったが、ブラックホールの合体は太陽の質量の8倍から36倍も大きかったので、重力波が観測できたということらしい。

超新星爆発のときに金のような重い元素がつくられると星の進化の研究から予想されていたが、そういう光のスペクトルが観測されたということも報道されていた。普通には鉄より重たい元素は恒星の中ではつくれないとか読んだ気がするが、もうそれも確かではない。


11月9日

2017-11-11 18:15:36 | 日記

はドイツの歴史上でいろいろのことが起こった日だという。

近くでは1989年にベルリンの壁が崩壊したということがある。これは文字通りではないが、実質的にそういうことが起こった。それより昔のことではナチスによるユダヤ人の迫害事件として有名なクリスタルナハト(水晶の夜)があるし、革命も起ったという。この革命についてはどういう革命なのか私は知らないが、ちょっとドイツの歴史を調べたくなった。

いつも11月になるとドイツ語のクラスで11月9日とか11月11日のことが話題になる。11月11日11時11分にファスナハト、すなわち、カーニバルの日のカウントがはじまると毎年聞いている。

今年も11月9日のクラスでそのことを聞いた。こちらの方は覚えていたのですぐにそのことをいうことができたが、11月9日のドイツの歴史の話はいつも聞くことだのに忘れてしまっていた。R氏にとってみれば、なんて物覚えの悪い輩らなんだろうと思っていることだろう。

ちょっと調べて記憶にとどめておかなくてはならない。12月に入れば、クリスマスが来るという期待で陰鬱ではないが、11月は先祖のお墓に詣でたりして、季節も太陽の光も弱くなり、一年で一番自殺の多い月であるという。

 


黄金の20年代

2017-11-09 15:33:08 | 日記

というのはいうまでもなく1920年代のことである。ドイツだけかどうかは知らないが、ものすごいインフレが第一次世界大戦の終了と共に起こり、その数年ドイツ人を苦しめた。だが、1922年か23年にこのインフレが収まると生活が安定してきて、1929年までを黄金の20年代というらしい。

物理を学んだ私たちが知っているのは1925年の行列力学の創設と1926年の波動力学の提唱である。これがいわゆる黄金の20年代の中に入っているのは単なる偶然なのであろうか。そういえば、日本でもNHKがラジオ放送を始めたのは1925年だという。これは日本では大正時代の終りである。このころ日本でも東京に関東大震災が起こった。

このころはドイツだけならず、日本でもラジオとかのメディアが発達してきた時代であった。私は1939年の生まれなので、父や母はこの大正時代の雰囲気をたっぷりと吸って育ってきた世代なのであろう。このころは映画とかレコードによる音楽の普及とかがあったという。

1932年にドイツではナチスが政権をとるが、その前の1929年にハイゼンベルクとパウリの場の量子論の論文が提出されているのは何か因縁めいている。29年がドイツの黄金時代の終焉の年といえるという。1929年は日本でいえば、昭和4年にあたる。


自然哲学者と音楽家

2017-11-09 11:48:11 | 日記

これは戸川隼人さんの『数値計算』(岩波書店)のコラム(p.100)の受け売りである。

ニュートンが活躍した時代は17世紀で音楽家としてはビヴァルディの時代

オイラーは18世紀前半で音楽家としてはバッハの時代

ラグランジュは18世紀後半で音楽家としてはモーツアルトの時代

ガウスは18世紀と19世紀の境目で音楽家としてはベートベンの時代

ヤコビは19世紀前半で音楽家としてはショパンの時代

チェビシェフは19世紀後半で音楽家はチャイコフスキーの時代

だという。

こういう対比はおもしろいもので、日本史の本でこの日本の時代がヨーロッパでは誰それの時代であったとかあるとなるほどと妙に安心したりする。

ちなみにこのコラムのタイトルは「ガウスと消去法」である。

戸川さんの前記の書だが、購入して持っていたけれども読んだことはなく、今回ある目的のためにちょっとこの本を覗いてみたら、こういうコラムがあったということを発見した。

ちなみに、ガウス-ルジャンドル数値積分について、分点の求め方とその重みが必要である。重みの式を与えてあるけれども、その導出は具体的な説明はなく、ルジャンドル多項式の性質を利用して、と文章での説明があるだけである。数値解析の専門家にはその一般論が知られているけれども。

 (2017.11.15付記)自分の書いた本で恐縮だが、『数学散歩』の終りの方にガウス-ルジャンドル数値積分の重みの(素人のための)求め方が書いてある。この本はもう品切れである。しかし、googleでその一部を読むことができるので、運がよければ、無料でその箇所を読むことができるかもしれない。


そろそろ数学・物理通信の

2017-11-08 15:44:41 | 日記

編集にとりかかる時期がやってきた。それで数日前から少しづつとりかかっている。

なかなか仕事が進まないのが難点だが、そうかといって何もしないとまったく進まないので、少しでも進みたいと思う。それでもまだ投稿者に各自の点検をお願いするところまではいっていない。

著者の方々にはいましばらく待ってもらうほかない。


最近はおかしくなる

2017-11-08 11:24:38 | 日記

ことが多い。というのは私の使っているe-mailの受信欄が急に減ってしまったのだ。多分、外からちょっかいを出されているのだと思う。

私は一応ウイルスを防ぐワクチンは入っているし、e-mailではウイルスに感染していれば、その削除をしてくれるサービスにも入っているが、それでもなにか予期しないことが起こることまでは防げない。

そして、ときどきというか使っている途中で節電モードに移行したりする。使っていないときなら仕方がないのだが、使っている途中で急に節電モードに入るなどはどう考えてもおかしい。


自殺願望の人を止めるためには

2017-11-07 11:54:53 | 日記

どうしたらいいか。サンフランシスコの近くのゴールデン・ゲート・ブリッジは自殺の名所だという。そこへ自殺のために来た人を救ってきた警官がNHKのEテレで放送の先日のTEDで話をしていた。彼は二人だけ救えなかったそうだが、残りの数千人を救ってきたという。

彼は通報があると現場に駆けつけて、ひたすら自殺願望者の話を聞くのだという。本来人は自殺願望を持っている人といえども本当に死にたいとは思っていないらしい。ただ、ひたすらその人の話を聞いていれば、自然と生きる望みを持って自殺をやめるのだという。

自殺志望者に説教する必要も何もいらないのだという。要するに相手の話に耳を傾けることだけが必要なのだと聞くとほっとする。

河合隼雄さんというユング派の精神分析家がおられた。最後には文化庁の長官までされた方だったが、彼は精神的に問題がある人と会って話を聞くのが仕事だったと書いてあるのを読んだことがある。話を聞いているうちに各自が自分で自分の問題に気付いて自然に治っていくのだと書いていた。

たとえば、頑固な父親と心理的な対立をしていた子どもでもある時間をとって定期的に話を聞いているうちに、その問題点を自分で気づいて自分で解決できるようになるのだという。精神分析家はじっと我慢して人の話を聞き続ける根気がなくてはならない。そういう人に出会えた人は幸せである。

ただ、親切そうに相談に乗ってくれるのかとおもいきや、自分の利害のために人を殺害しようと狙っている人も世間にはいるので、用心である。どういう苦境に陥ったとしても、そんな人ではあるかどうかぐらいは、自分で判断できる力をもちたい。