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http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/2009-03.html#20090311
きょうは参院予算委のほか、衆院の多くの委員会で「大臣所信表明」と「一般質疑」がありましたが、傍聴できませんでした。
とはいえ、「政治家が判断する」時期ではなく、「国民が判断する」時期です。いずれしろこの時期の傍聴記をどうしようか思案していましたので、渡りに船、国策捜査を書き続けます。とりあえず、3月14日(土曜日)に大久保秘書の拘置期限が来ますので、ここでの不起訴をめざしたいと思います。
報道の感想について。西松建設・国策捜査事件に関しては、メディアを問わず社会部=帝国陸軍、政治部=帝国海軍という感じがします。
社会部(陸軍)は「やれ行け!それ行け!」と検察権力とマスコミ権力と社内権力で大暴走。やりすぎを感じた政治部(海軍)は「漆間発言」などで陸軍をいさめるが、いかんせん社内では陸軍が強い。
小沢一郎代表が11日、若手議員から「続投要請」を受けました。この席で、小沢さんの秘書を10年間つとめた石川知裕・衆院議員が参考人として聞き取りを求められていることに「本来、事情聴取は内々に行うべきで、頻繁に報道されているのはおかしな話だ。衆議院選挙を前にした選挙妨害以外のなにものでもない」と発言しました。
1891年(明治24年)12月25日、松方正義首相は憲政史上初の衆議院解散にふみきり、第2回総選挙(1892年2月15日)に突入しました。
第1回衆院選に続き、国民を代表する民党(自由党、立憲改進党)と官僚を代表する吏党のたたかいになりました。
このとき、品川弥二郎内務大臣(注:当時は議院内閣制ではない)の大規模選挙干渉事件「品川事件」というのがありました。詳細は明らかになっていない面もあるのですが、内務省の指示を受けた警官が選挙民の自宅をたずねて「民党に投票しないよう」圧力をかけた悪質な事例もあったとされています。全国で25人の犠牲者が出たようです。
当時の衆議院の定数は300、ほとんどが小選挙区(一部2人区)でした。何か今と似ています。
この弾圧にもかかわらず、「民党」は160~170議席を獲得し、「吏党」は120~130議席にとどまりました。第1回衆院選に続き「民党」が勝利しました。
(無所属の「民党」「吏党」の仕訳は、色川大吉「日本の歴史21近代国家の出発」中公文庫)に基づく)
300のうち、「民党」が165前後、「吏党」が125前後。なんだかリアルな数字ですね。117年前の日本国民はバカではありませんでした。2009年の日本国民は果たしてどうでしょうか。
なお、午後6時過ぎに彼と会話しましたが、元気でした。私はだいぶ疲れました。やっぱり僕は政治家には向いていない人間だと思います。だったらブログで頑張るか(^_^)v
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