【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

野田内閣発足 議員総会の木曜常設化を ハーマン党首代行のような人を置いて欲しい

2011年09月04日 23時41分12秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

 さて、野田内閣の布陣を官報で見てみましょう。官報の場合は、名前が先にきて、役職名が後ろなので、少し慣れが必要です。

 

 この中で民主党のも与党らしくなってきたのは、台風上陸が予想・予報されていたことから、後ろから2人目「阿久津幸彦」「内閣府大臣政務官に任命する」と防災担当の政務官として阿久津・衆院議員が引き続き再任されました。政務官は陛下の認証はいりません。この辺は評価して欲しいですね。

 一方、今回の組閣では、党幹事長・政調会長・国対委員長、そして藤村修官房長官に続き、首相秘書官人事が先に報道されました。そして、この秘書官を見ると、菅首相秘書官は財務省主計局次長が総理秘書官になったら、菅首相秘書官は主計局次長にかえりました。このほかにも官房総務課長が秘書官になったら、菅さんの秘書官は官房総務課長にかえりました。これなら選挙に出るというリスクをとるより、官僚になった方がよっぼど楽ですね。

 なぞの「竹歳誠・官房副長官(事務)」。現職の国交事務次官ですが、昭和47年・建設省入省です。例えば、安達・経産事務次官はすでに昭和52年まで時計が進んでいます。国交省は4省庁合併、経産省は通産省を改称しただけですから、国交省は人材が詰まって居るんですね。そこで昭和50年入省の勝栄二郎・財務事務次官が引っ張ったのではないか。というのは、歳入面では国税と地方税をめぐる財務省と総務省の「50年戦争」はいまだに続いています。しかし、歳出をめぐる主計局では、エース級は公共事業(建設省)担当の主計官でしたが、最近では社会保障(厚労省)担当の主計官の方がエリートコースになっています。そこで、総務省から来ていた瀧野欣也・官房副長官にかえて、竹歳・副長官。「被災地復興のため国交省から」と言えば、いかにも納得しますし、総務省は首相秘書官を出していませんから、官房副長官をとられれば、官邸内での力が大きく落ちます。

 さて、制度改革は待ったなしですが、政調による閣法の事前審査制には反対です。これには、国会が形骸化することで、国会内(ないし政党本部内)のみを取材するのが前提の当ブログとしても困るという事情もあります。

 それよりも、英国保守党の1922委員会に学ぶべきです。「1922委員会」といっても1923年設立で、1922年の総選挙での地滑り的圧勝で生じた大量の政府外議員の求めで、1923年にできたもので、現在に続きます。

 保守党、労働党とも、国会開会中は毎週木曜日の夕方に「議員総会」を開いていて、閣僚はあまり出来ませんが、党執行部は必ず参加しているようです。また両党とも夏に1週間程度の合宿形式の党大会を開いています。相対的に、保守党は議員政党、労働党は組織政党になりますので、党大会は労働党執行部の方が修羅場ですが、保守党の議員総会では、ときに党首おろしが過熱し、ヒラ議員たちの世論が与党任期途中での総理・党首の進退に直結することがあります。ですから、キャメロン首相(党首)は、就任直後から、1922委員会の権限縮小に乗り出しました。一方の労働党も与党時代は、ブレア派によるブラウン首相・党首おろしが起きました。地方選挙の敗北をきっかけに複数の閣僚や閣外相、副大臣が五月雨式に辞任していく(おそらくシナリオがある)わけですが、なんとかこらえました。そして返す刀で、「イラク戦争検証委員会」をその週のうちに立ち上げました。すなわち、イラク戦争で「血を分けた同盟国だ」としてアメリカ・ブッシュ大統領と行動をともにしたブレア前首相を引きずり出すと同時、「ブレアの戦争であって、労働党の戦争ではない」と強調したかったのでしょう。ちなみに当時、ブラウンさんは財務卿でしたから、まったく責任がないわけではありませんが、党内的には旧ブレア派を黙り込ませて、求心力回復に成功したでしょう。とはいえ、総選挙は「追い込まれ解散」にまで追い込まれ、負けましたが、保守党は単独過半数を逃したので、この”悪あがき”はそこそこ成功だったかも知れません。ただ、その木曜日夕方の議員総会も「何もなければ」数人のヒラ議員しか出席しないで、あっさり散会することもしばしばのようです。この仕組みをつかえば、政調事前審査制のシステムなどつくる必要がないと考えます。もう衆議院任期は半分を切ったのですから、政府外議員の政策などという悠長なことを言っている場合ではありません。

 

 ところで、昨年5月6日、12年間の政権の座から転落した野党・労働党は、党首(シャドウ首相)選挙を5ヶ月間かけてじっくりやりました。すでにブラウン首相がエリザベス女王に辞表を出していましたから、党首代行を立てましたが、これは、与党時代から副党首(閣議には出席しない)だったハーマン女史が5ヶ月間党首代行を務めました。ハーマン女史はまさに、労働党の母として、「選挙管理執行部」を守りました。そして、5ヶ月間の末、「デービッド・ミリバンド前外相vsエド・ミリバンド前エネルギー大臣」の兄弟による決勝戦で、弟のエド・ミリバンド新党首(影の首相)が誕生しました。日本では、政治家が兄弟の場合、「岸・佐藤兄弟」「安倍・岸兄弟」「鳩山兄弟」でも兄が先に首相になるものですが、英国では弟が当選するんですね。しかもお兄さんは外相として、米国のクリントン国務長官が「彼ってとってもハンサムでステキなのよ!!」と絶賛されていたと報道(後に国務省が否定)されていたほど、リアル外相経験もあるのに、弟が勝ちました。僅差でしたが、より若い党首を据えた方が、政権奪還への日常活動がしっかりできるという計算もあるのでしょう。ミリバンド党首(影の首相)も野党ですから、充電しているようで、先日はツイッターで、著名な黒人ゴルファーにレッスンを受けたとツイートしたところ、有権者から、野党なのに、「あなたにはもうそんなことをしている余裕はないのですよ」とたしなめられ、黒人ゴルファーが「いや、あくまでもレッスンをしただけなんですが・・・」と理解を求める一幕もありました。

 そして、フランス国民議会は総選挙後1年間は解散できないと憲法でに書いてありますが、英国庶民院は、その5ヶ月間に絶対に解散がないとは断定できません。その中で、「労働党の母」の大役を終えたハーマン前党首代行は、先日、ケンブリッジ大学の「レーバー(労働党クラブ」を訪問しました。そのときの写真が上の写真です(ハーマン議員のツイッターから)。こうやって日常活動をしながら、次の選挙、あるいは半世紀後の労働党を見すえて居るんですね。さて、この写真の中から未来の労働党党首、首相はでるか?私は写真に向かってイチバン右の唯一の黒人女性が、未来(20年後ぐらい?)の労働党党首の雰囲気を醸し出している気がしますがどうでしょうかね。

 もう衆議院の任期は半年切ったのですから、下野に備えて、党首代行になれる副代表、基本的には参議院議員、できれば女性、そして首相への野心が外形的にもない人を指名して欲しいと考えます。


おつかれさま菅直人さん ベストショットは? & 引き継がれた“奇兵隊”内閣  

2011年09月03日 00時10分16秒 | 第177常会(2011年1月)大震災・3党合意


 2011年9月2日(金)の午後2時から皇居で親任式(内閣総理大臣の任命式)と認証式(国務大臣の認証)がありました。これにより、野田内閣が正式の発足し、8月30日午前の総辞職後も、職務執行を続けてきた菅直人さんは内閣総理大臣をやめました。

 まずはお疲れ様でした。

 本来、二大政党デモクラシーでは、国民が選んだ政党は党首とセットですので、首相は次の総選挙まで変わらないの定石にすべき。そうでないと、私たち国民の1票の価値が損なわれます。例えば、18年間野党を続けていて、危機感が募っていた労働党が、トニー・ブレア党首をあわせて「新しい労働党(ニューレーバー)」を標榜。その翌年、長年の懸案だった労働党規約4条「すべての生産手段を公有化する」という社会主義条項を直すことに成功。その翌年の総選挙に勝利して、政権交代。政務三役経験がないブレア首相が誕生し、労働党では3連勝し、11年間政権を担うことに成功しました。その間に、ブレア首相からブラウン首相に代わりましたが、ブラウン氏ははじめから財務卿で、「次」は約束されていたようです。ブレア派とブラウン派の激闘のなかで、その時期を探っていく、というのが小選挙区制における与党の多数派争いということになるようです。

 ですから、菅さんには「石にかじりついても」第46回総選挙の直後(あるいは直前まで)総理をやってほしかった。サミットに2年連続で出席したのは小泉首相以来ということになりました。しかし、2月17日の会派離脱ショック、6月2日の不信任決議案をめぐる混乱のなか、力尽きました。菅さんは昨年9月の代表選で、凌雲会の会合で「菅総理vs小沢前幹事長」の闘いを西南戦争に例えた、と報道され、その後修正されることがありました。西南戦争勝利の後、「そこまでやるか」という世論を持つ勢力が一定数いて、その人たちの逆恨みを買ったために翌年、紀尾井坂の変に倒れた、故事に似ています。「創業と動乱の十年」がおわり、「より若い世代に責任を引き継」いだ「建設の十年」にしていきたいところです。

 菅さんは組閣時「奇兵隊内閣」と名付けました。

 いろいろな出身、経歴の人が大臣として責任を分かち合ったからです。

 野田内閣でも、選挙区を父親からブランク無く世襲した議員は、鹿野道彦農相ひとりとなりました。

 私が注目しているのは、玄葉光一郎外相で、上智大学法学部卒業のSophian。ミッションスクール(キリスト教とくにカトリック団体などが携わる学校法人が運営する私学)の大学の卒業生の外相就任は、どうやら明治維新・太政官布告以来初めてのようです。もちろん、同志社英学校で英語を勉強した人がいますし、より人格形成に影響がある幼稚園などでミッションスクールに通った人もいるかもしれませんが、”第一の開国”の果実ともいえる、ミッションスクール大学の外務大臣となると、欧米社会の外交官、国際機関職員の考え方の底に流れる部分を理解しやすいし、コミュニケーションも円滑になるでしょう。国際機関では上智大学、同志社をはじめとするミッションスクール出身者は活躍していますが、国内ではやはり日本の国立大学出身者がエリート(政治的資源を持つ人)となっています。細川護煕首相が上智大学卒業生で、国際会議に出席していたわけですが、玄葉さんが松下政経塾(8期生)→県会議員→最後の中選挙区で無所属で国会議員当選→当選を重ねる→国家戦略大臣→外相という人材供給ルートで、外相になりました。でもまあ、横浜開港から150年というのは、遅すぎますよね。こういった人材を活用しないといけないし、潰しちゃいけません。ただ、それは今のグローバリゼーションの中では日本一国ではあがなえない状況となっています。ミッションスクール出身者は、「宗教の授業があるくらいで、後は他に関係ないから」と言い人が多く、これをやや自慢げに言う人もいるのが、私には解せないところですが、神父ないし牧師も兼ねる教育者から宗教に限らず、語学だとか様々な指導も得て、なんと言っても、学校法人の構内だけでも、教会(チャペル)があって、大事にされているという周辺環境というのが大事だと考えます。玄葉外相にはキリスト教社会に限らず、一神教が国教だったり主流だったりする国、すなわちほとんどの国連加盟国ということになるわけですが、よく理解し、また日本の立場をよく理解できるようなコミュニケーションを期待したいです。とはいえ、くり返しますが、横浜開港から152年たって、太政官時代から外相はいたのに、あまりにも人材を活用することが出来ないのが日本という国であり、また選挙というものなのだと思います。

 さて、国会傍聴記ですから、菅直人内閣総理大臣の在任中の国会議事堂内でのベスト・ショットは何か? 私は、インターネット生中継で国会審議をみている間に、頻繁に「プリントスクリーン」で、キャプチャして、保存しています。ブログ内で使うのは、その一部です。この1年3ヶ月を見て、どれがベストショットか考えてみました。

 

 そして、これは2011年3月29日(火)の衆院本会議。防災服姿でアタマを下げる菅直人首相(イチバン右)や、野田財務相(左から2人目)らです。菅内閣が概算要求基準をつくり、政府原案をつくって、国会に提出し、衆院予算委員会での答弁を乗り切り、参院予算委員会の審議では、前原誠司外相辞任ということになり、さらに東日本大震災で大幅にスケジュールが空くことになり、そして衆参ねじれのため、参議院で否決されてしまったけど、日本国憲法60条により、衆本で衆院の議決が優先され、成立が決まった瞬間の菅直人・内閣総理大臣。

 私はこれを、菅内閣1年3ヶ月のベストショットにしたいと思います。ちょっと菅さんの顔がうつっていないのが残念ですが、私からして、本予算成立を総理として成し遂げてひな壇からアタマを下げている菅直人、さらに防災服姿もあいまって、似合っていない。ものすごく似合わない。ムチャクチャ違和感があるわけです。客観的事実を言えば、野党暮らしが長かったからです。定期的に政権交代する二大政党デモクラシーを今度こそ確実につくりあげなければ、人材が枯渇します。

 野田新内閣でもさっそく、人材潰しらしき動きが始まっており、産経新聞社が全閣僚に、2005年10月の野田さんの「戦争犯罪人は国内法上は存在しない」という質問主意書について質問しました。これを読んでいる産経新聞の記者は、日本が1956年に国際連合に加盟したとき、ニューヨークの国連本部前のポールに日本国旗を掲げた外相が重光葵だということを確認すべきです。

[画像]目で見る議会制度百年(衆議院など編)から、1956年の国際連合に加盟し国際社会に復帰したときの外相(日本政府代表)の重光葵(右上の写真で日本国旗を見上げる人物)。

 1945年、ポツダム宣言を受諾し、東京湾内の米戦艦「ミズーリ」の艦上で降伏文書にサインしたのが、重光葵です。そして、吉田茂内閣がサンフランシスコ講和条約(多国間条約)で独立を回復し、その条約の第11条にもとづき、東京裁判(極東国際軍事裁判)が行われました。そしてサンフランシスコ講和条約のすべてを受け入れた上で、国際連合に復帰したのが1956年。そしてその外相が重光葵でした。そして彼はA級戦犯として服役し、仮釈放されました。1956年の時点では「仮釈放」の扱いはどうなっていたかは分かりません。しかし、仮に日本の国内法上戦争犯罪人として有罪となり服役し仮釈放された人物を晴れの国連(国産連合)デビューに送り出したとはヘンテコな話です。また国連(Unitad Nations)としても許せないことだったでしょう。

 
[画像]岡田外相のかわりに、国連パキスタン洪水緊急会合で、国連総会上で演説(日本語)する外務副大臣時代の藤村修さん。

 それでもちゃんとわが国は国連の一員で居続けています。



 これは2011年4月28日(木)、平成23年度第1次補正予算(案)で代表質問で答弁する菅首相。東日本大震災ということで、4月中に異例の補正予算提出ということになりました。こうした未曾有の国難でも、本会議場での振る舞いは堂々としていました。



 これは2011年6月1日(水)の参院本会議です。さきほども言及したように、サミットに2年連続で出席した首相は、小泉純一郎さん以来となりましたが、そのサミットから帰国後に、参議院から求められてのサミット報告(演説)とそれに対する各党代表質問で演壇に立ったシーンです。ちなみに、翌6月2日には、衆本でも同じ議題が予定されていましたが、自民党・公明党・たちあがれ日本が提出した「菅内閣不信任決議案」が慣例にもとづき、緊急上程され、延期されたまま、衆本で議題になることはありませんでした。ですから、後世の歴史家が「3・11」後、最初の主要な多国間会議だった2011年フランスG8サミットについて調べるときは、参議院の議事録だけを参照することになります。

 代表選のときは「政治はうんざり」という人がまた増えてしまったようですが、野田演説から組閣にかけて、じゃっかん「もう一度だけ政治に期待しよう」という人が増えてきたように思えます。3党合意をしっかり守れば、3次補正、当初予算、そして来年度(4kの政策検証)まで参議院でも法案は通せます。3党合意は未来に向けての合意であり、またロケットブースターが巧妙に入っているすぐれたものです。

 義経(菅さん)さんが花道を「名誉」をもって引っ込んでいきました。それを見届けた弁慶(岡田さん)も飛び六方を踏んで、花道を引っ込みました。

 意外感を持たれた方もいるようですけど、どこに向かったんでしょうかね?(笑)。

 野田内閣は、野党が長かったため初入閣が10人ということです。私としては、初入閣10人とは思えない(民主党・国民新党がかかえる人材の中では)重厚な布陣となった印象の野田内閣。みんな苦労して、努力した人たちばかりです。ただ、その中でも、とくにイチバン努力した人は、鉢呂吉雄・経産大臣、イチバン苦労した人は前田武志・国土交通大臣ではないか、という私の感想を最後に申し添えておきます。そして、苦労した人10人が初入閣したところに、衆院任期がもう半分を切っている、ということを改めて実感します。外は秋の風情です。


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野田首相の事務秘書官に財務省主計局次長と警察庁元岩手本部長 政務は松下政経塾2期生

2011年09月02日 00時10分15秒 | 第178臨時国会(2011年9月)野田内閣

 報道によると、野田佳彦首相=国会指名済み、天皇陛下の任命後に就任=の秘書官7人が内定したそうです。

 筆頭秘書官である政務秘書官には、松下政経塾2期生で、野田議員の政策担当秘書や、蓮舫大臣の政務秘書官も務めた、河井淳一さん。政経塾2期生ということですから、民主党と自民党双方に広がる議員ネットワークを活用し、総理とのアポ取りなどでも手腕を発揮できるのではないでしょうか。

 注目は、財務省が主計局次長(3人いる)の一人、太田充さん(昭和58年、1983年入省)を送り出しています。主計局次長は3人いますが、局長および局総務課長、主計官と比べると、時間的などに余裕があり、機動的に動けるようで、財務大臣の総理昇格にともない、サッと入ります。やはり歳出の徹底した削減のうえでの消費税増税などで手腕をふるいそうです。

 警察庁から、山下史雄・官房総務課長ということで、こちらも太田さんと同じ、昭和58年入庁。岩手県警本部長の経験もあるので、復興の方での感覚もあるのでしょうか。

 そんななか、経産省からは昭和59年入省の寺沢達也さん、厚労省からは同じく59年入省の吉田学さんということで、財務・警察両省庁よりも年次が下の人を派遣してくるというのは、やはり、権力欲がないというか、おとなしい省庁なのかなあと感じます。

 ですから、財務省系の太田秘書官と旧内務省系の山下秘書官で、なにか火花が散らなければいいのですか。この辺の総理秘書官室の緊張感というのは、私はあまり好きではありませんが、秘書官当人たちにとっては何でもないようです。むしろ、野田首相をはじめとする、民主党議員から官邸入りするメンバーが気後れしなければいいのですが、たぶん気後れするでしょう。

 外務省からは寺沢達也さんで、ちょっと年次は分かりません。菅直人首相・北澤俊美防衛大臣時代に、念願の防衛省出身の首相事務秘書官が誕生しました。これまでは警察庁出身の秘書官(防衛庁出向経験ありの場合も)が兼ねるという、霞が関の常識・世界の非常識で、総理の近くに防衛省出身者がいませんでしたが、この前田哲・秘書官は続投と言うことで、官邸での足場を固めたいようです。

 麻生内閣のときには総務省出身秘書官がいましたが、今はいません。ただし瀧野欣也・官房副長官(事務)は、元総務事務次官です。

 なるべく出身省でなく、総理に仕えて欲しいと願います。

 このほか、初入閣の民主党議員事務所には、すさまじい勢いで各府省の役人や警視庁(護衛官)などがやってきます。摩訶不思議なことに、総理事務秘書官から「総理のご下命でお電話しました。官邸にお越し下さい」と言われ、国会議員が会館を出た直後に、「私、このたび、大臣の事務秘書官になりました○○です」という人物がやってきます。このほか、数十人の官僚や警視庁護衛官らがやってきて、廊下にならびます。

 このときに、秘書が「センセイが入閣した!」という高揚感と極度の忙しさのなか、次々やってくる役所の人の質問にドンドン答えると、1年後にセンセイは、大臣として何もできなかったといわれながら、事務所にさびしく帰ってきます。

 これは、もう民主党としては組閣や内閣改造は4回経験していますから、その経験のある秘書や先輩に、体験談を聞いておいた方が懸命だと思います。何事も初めが肝腎。機先を制すのはムリでも、十分に注意してください。

 総理や、大臣の事務秘書官の制度の根本的な制度改革を求めます。

【追記 2011年9月3日 午前1時】

 驚きべきことに、内閣官房副長官(事務)は、総務省(自治省)出身の瀧野欣也さんにかえて、通常国会中国交事務次官だった竹歳誠さん(昭和47年建設省・国交省入省)が就任しました。厚生省(厚労省)・警察庁・自治省(総務省)の指定席で、旧財務官僚を起用した安倍内閣は参院選に負けて、福田内閣でその前任の二橋正弘さんを1年ぶりに復活させたことがあります。二橋さんは自治省(総務省)で、旧内務官僚の指定席であることを強調する狙いがあったと思います。今回、建設省出身者が起用されたのは、国交省が4省庁(建設省、運輸省、国土庁、北海道開発庁)の合併によってできた官庁なので、天下りポストが渋滞しているからではないか、と勘ぐってしまいます。それも「大震災があったから国交省」というと、いかにも納得いくような話ですが、それは本質とは遠い話。諸課題を考えれば、自治体のことが分かる自治省出身者の方がいいでしょう。要は、組閣の前から「野田首相は2日、官房副長官に竹歳氏の起用を決めた」という断定調の記事がどこが発信源となって出ているかということです。党内バランスに配慮した組閣に手間取っていた首相に、事務の官房副長官を建設省に切り替えるという判断を自分でする余裕があるとは、推測では考えられません。残念なことです。新聞も記事にしないで欲しいと願います。
【追記終わり】

首相秘書官:河井淳一氏ら7人が内定 - 毎日jp(毎日新聞)

 野田佳彦新首相は1日、秘書官7人を内定した。政務担当には野田氏と同じ松下政経塾出身で、財務相当時に政務秘書官を務めた河井淳一氏を起用。事務秘書官は6人で、菅内閣と同数を維持する。
 
 外務省から金杉憲治アジア大洋州局兼南部アジア部参事官、財務省から太田充主計局次長、厚生労働省から吉田学保険局総務課長、経済産業省から寺沢達也通商政策局通商機構部長、警察庁から山下史雄総務課長を起用。防衛省出身の前田哲氏は再任する。