札幌の街の一つの象徴でもある北海道大学(札幌農学校)の創設期の変遷を少しは理解することができたかな?と思っています。
1月15日に開講した札幌市民カレッジの「札幌の歴史をふりかえる」講座を受講しています。
私のブログタイトル名でもある「札幌を見て!観て!視て!」札幌を知る上からも札幌の歴史を学ぶことは外せない要件と考えているからなのですが・・・。
一昨日(1/22)で二講が終了しました。
各講ごとのタイトルは、第一講が「北海道『開拓』と農学校」 第二講が「札幌農学校の再編・昇格と佐藤昌介」でした。
講師は二講とも北大教育学部教授(副学長)の逸見勝亮(へんみ まさあき)氏が務めました。
第一講は、明治新政府が日本の学校制度を整備し、欧米に追いつくために岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが建言した文書を原文で読み、その延長線上に札幌農学校の設立があったことを理解しました。
その中の文書の一つから面白いもの発見しました。明治5年に作成された「開拓使仮学校規則」という文書の中で、札幌のことを「薩孛魯」(さっぼつろ?)と表記されていたことです。それ以降の文書では「札幌」となっていますから、「札幌」という表記は明治5年前後に定められたのではと想像されます。
それにしてもすごい当て字が使われていたのですね。
第二講は、講師の逸見氏の研究対象である初代の北海道帝国大学総長だった佐藤昌介についての講義でした。佐藤昌介は札幌農学校を帝国大学に再編・昇格させるために奔走した、いわば現在の北大の産みの親ともいえる存在です。
そんな佐藤がクラーク博士、宮部金吾、内村鑑三、新渡戸稲造、有島武郎などに比して現在それほど評価されていないのはなぜなのか、という疑問を私たちに投げかけるような形で講義が始まりました。
佐藤の事績を追っていくと、専門学校だった札幌農学校を帝国大学に昇格させるために奔走した活躍は称賛に値すると思われます。その陰で彼を支えたのは大正時代に入って内閣総理大臣にまで登りつめた原敬です。佐藤と原は竹馬の友であり、政府内にあって力のあった原が佐藤の思いを後押ししたというのが真相のようです。
そうした功績もあって佐藤は初代総長にまで就くのですが、現代においてそれほど評価が高くないのはどうしてなのでしょうか?
講義の中で逸見氏はそのことには直接触れませんでした。それは受講者一人ひとりが考えろということなのかも知れません。
そこで愚かにも私なりに考えてみました。
その一つは彼の功績が学術的なものではなく、あくまで政治的な動きによる功績という点が学術研究的色彩を強めた戦後期になってその評価が薄められたのではないか、ということです。
そして、こちらの方が決定的な理由と思われますが、それは彼の研究分野に原因があったのではと思われるのです。
彼は農政学者であるとともに、殖民学者でした。この耳慣れない殖民学とは…。「植民地をどのように支配するか」という学問だということが分かりました。
帝国主義国家において「植民地」は国家を富ませる重要な要素であったかもしれませんが、戦後においてはそうした考え方も学問も葬り去られてしまいました。その研究者であった佐藤も同様の評価をされてしまったのでしょう。
あらっぽい結論ですが、今回の講義を受けて私なりに導いてみました。
佐藤昌介の銅像は、北大の正門横の芝地にひっそりと佇んでいます。(こちらのブログを参照ください⇒)
市民カレッジ「札幌の歴史をふりかえる」はまだ三講、四講と続きます。
ときにはこうして脳を刺激してやるのもいいですね。写真撮影禁止なので地味なレポートになりますが、また次回の様子をレポートします。
【旅は始まった №8】
旅する目的地が決まって、私がしたことはこれまで述べてきた移動・宿泊手段を手配することともに、現地についての情報収集です。
その情報手段の一つとして利用したのがDVDです。DVDのレンタル店からは現地がふんだん紹介されるテレビドラマを、市の図書館からは現地の自然を映したDVDを借りて情報収集を図っています。
1月15日に開講した札幌市民カレッジの「札幌の歴史をふりかえる」講座を受講しています。
私のブログタイトル名でもある「札幌を見て!観て!視て!」札幌を知る上からも札幌の歴史を学ぶことは外せない要件と考えているからなのですが・・・。
一昨日(1/22)で二講が終了しました。
各講ごとのタイトルは、第一講が「北海道『開拓』と農学校」 第二講が「札幌農学校の再編・昇格と佐藤昌介」でした。
講師は二講とも北大教育学部教授(副学長)の逸見勝亮(へんみ まさあき)氏が務めました。
第一講は、明治新政府が日本の学校制度を整備し、欧米に追いつくために岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが建言した文書を原文で読み、その延長線上に札幌農学校の設立があったことを理解しました。
その中の文書の一つから面白いもの発見しました。明治5年に作成された「開拓使仮学校規則」という文書の中で、札幌のことを「薩孛魯」(さっぼつろ?)と表記されていたことです。それ以降の文書では「札幌」となっていますから、「札幌」という表記は明治5年前後に定められたのではと想像されます。
それにしてもすごい当て字が使われていたのですね。
第二講は、講師の逸見氏の研究対象である初代の北海道帝国大学総長だった佐藤昌介についての講義でした。佐藤昌介は札幌農学校を帝国大学に再編・昇格させるために奔走した、いわば現在の北大の産みの親ともいえる存在です。
そんな佐藤がクラーク博士、宮部金吾、内村鑑三、新渡戸稲造、有島武郎などに比して現在それほど評価されていないのはなぜなのか、という疑問を私たちに投げかけるような形で講義が始まりました。
佐藤の事績を追っていくと、専門学校だった札幌農学校を帝国大学に昇格させるために奔走した活躍は称賛に値すると思われます。その陰で彼を支えたのは大正時代に入って内閣総理大臣にまで登りつめた原敬です。佐藤と原は竹馬の友であり、政府内にあって力のあった原が佐藤の思いを後押ししたというのが真相のようです。
そうした功績もあって佐藤は初代総長にまで就くのですが、現代においてそれほど評価が高くないのはどうしてなのでしょうか?
講義の中で逸見氏はそのことには直接触れませんでした。それは受講者一人ひとりが考えろということなのかも知れません。
そこで愚かにも私なりに考えてみました。
その一つは彼の功績が学術的なものではなく、あくまで政治的な動きによる功績という点が学術研究的色彩を強めた戦後期になってその評価が薄められたのではないか、ということです。
そして、こちらの方が決定的な理由と思われますが、それは彼の研究分野に原因があったのではと思われるのです。
彼は農政学者であるとともに、殖民学者でした。この耳慣れない殖民学とは…。「植民地をどのように支配するか」という学問だということが分かりました。
帝国主義国家において「植民地」は国家を富ませる重要な要素であったかもしれませんが、戦後においてはそうした考え方も学問も葬り去られてしまいました。その研究者であった佐藤も同様の評価をされてしまったのでしょう。
あらっぽい結論ですが、今回の講義を受けて私なりに導いてみました。
佐藤昌介の銅像は、北大の正門横の芝地にひっそりと佇んでいます。(こちらのブログを参照ください⇒)
市民カレッジ「札幌の歴史をふりかえる」はまだ三講、四講と続きます。
ときにはこうして脳を刺激してやるのもいいですね。写真撮影禁止なので地味なレポートになりますが、また次回の様子をレポートします。
【旅は始まった №8】
旅する目的地が決まって、私がしたことはこれまで述べてきた移動・宿泊手段を手配することともに、現地についての情報収集です。
その情報手段の一つとして利用したのがDVDです。DVDのレンタル店からは現地がふんだん紹介されるテレビドラマを、市の図書館からは現地の自然を映したDVDを借りて情報収集を図っています。