明治の怪人「駒田好洋(こまだ こうよう)」は日本に活動写真が初公開されたその年(明治30年)に北海道までやってきて上映したということです。
市民カレッジ「蝦夷地から北海道へ」の第3講は「活動写真隊 明治の北海道を行く」と題して、前回に引き続き札幌の歴史に詳しい北海道新聞出版委員の前川公美夫氏による講座でした。
今回の講座の主人公「駒田好洋」は活動写真が日本に導入された当初の無声映画の時代に、映写機を担いで全国を巡るだけでなく「活動弁士」として一世を風靡した有名人でした。
その駒田好洋なる人物を私がなぜ「怪人」と称したかというと(講師の前川氏はそうした呼称を一度も使っておりません)、彼は有名人なるが故に新聞に度々取り上げられるのですが、そこで語る彼の話が大言壮語、虚実入り交じっているものでした。
そうした彼のことを同業者は「大ぼら吹き」と揶揄したのですが、彼は意に介せず自らもほら吹きであることを認め、そのことが民衆の人気をさらに煽ったということですから、その有り様はまさに「怪人」そのもののように思えたのでした。
駒田は明治31年に続いて翌32年にも北海道巡業を行い、この年には前年の函館、小樽、札幌のみならず、利尻、礼文、古平、厚岸、霧多布、根室などといった僻地にまで足を延ばしたそうです。
その時の回顧談がまた虚実入り交じっていて、駒田の面目躍如(?)といったところです。
講座は講師の前川氏が収集した駒田が上映したフィルムを見せていただいたり、駒田の声を再現した(実際の駒田の声は残されていないため、その声、雰囲気を真似たもの)テープを聴かせていただいたりと大変興味深いものでした。
記録によると駒田は大正5年まで都合9回北海道を巡業で訪れていますが、僻地を巡回したのは明治31年だけだったようです。(その他の年は函館、小樽、札幌が中心です)
なぜ僻地にまで足を延ばしたかというと、当時は漁業が大変盛んで景気も良く人口もそれなりにいたという背景がありました。
それがなぜその年だけだったのかというと、当時の交通事情では重さ60Kgを超える映写機などの機材を抱えての巡業が想像以上に大変だったことがあったのだと思われます。(これは私の推測です)
蝦夷地から北海道になって間もない明治時代の北海道は、まだまだ未開の地であったということでしょう。
今回も前回と同様に視聴覚資料を縦横に活用した講義は大変興味深いものでした。
市民カレッジ「蝦夷地から北海道へ」の第3講は「活動写真隊 明治の北海道を行く」と題して、前回に引き続き札幌の歴史に詳しい北海道新聞出版委員の前川公美夫氏による講座でした。
今回の講座の主人公「駒田好洋」は活動写真が日本に導入された当初の無声映画の時代に、映写機を担いで全国を巡るだけでなく「活動弁士」として一世を風靡した有名人でした。
その駒田好洋なる人物を私がなぜ「怪人」と称したかというと(講師の前川氏はそうした呼称を一度も使っておりません)、彼は有名人なるが故に新聞に度々取り上げられるのですが、そこで語る彼の話が大言壮語、虚実入り交じっているものでした。
そうした彼のことを同業者は「大ぼら吹き」と揶揄したのですが、彼は意に介せず自らもほら吹きであることを認め、そのことが民衆の人気をさらに煽ったということですから、その有り様はまさに「怪人」そのもののように思えたのでした。
駒田は明治31年に続いて翌32年にも北海道巡業を行い、この年には前年の函館、小樽、札幌のみならず、利尻、礼文、古平、厚岸、霧多布、根室などといった僻地にまで足を延ばしたそうです。
その時の回顧談がまた虚実入り交じっていて、駒田の面目躍如(?)といったところです。
講座は講師の前川氏が収集した駒田が上映したフィルムを見せていただいたり、駒田の声を再現した(実際の駒田の声は残されていないため、その声、雰囲気を真似たもの)テープを聴かせていただいたりと大変興味深いものでした。
記録によると駒田は大正5年まで都合9回北海道を巡業で訪れていますが、僻地を巡回したのは明治31年だけだったようです。(その他の年は函館、小樽、札幌が中心です)
なぜ僻地にまで足を延ばしたかというと、当時は漁業が大変盛んで景気も良く人口もそれなりにいたという背景がありました。
それがなぜその年だけだったのかというと、当時の交通事情では重さ60Kgを超える映写機などの機材を抱えての巡業が想像以上に大変だったことがあったのだと思われます。(これは私の推測です)
蝦夷地から北海道になって間もない明治時代の北海道は、まだまだ未開の地であったということでしょう。
今回も前回と同様に視聴覚資料を縦横に活用した講義は大変興味深いものでした。