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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

合田一道氏 松浦武四郎を語る

2018-06-22 23:08:28 | 講演・講義・フォーラム等

 本年は北海道命名150年ということで、「北海道」命名の提案者である探検家・松浦武四郎が脚光を浴びている。ノンフィクション作家の合田一道氏が松浦武四郎のあれこれを語った。


             

               ※ 松浦武四郎の肖像で唯一残っていると思われる肖像写真です。(ウェブ上から拝借)

 6月20日(水)午後、かでる2・7において「ほっかいどう学」かでる講座の6月講座が開講された。

 今回は「北海道命名150年 ~松浦武四郎北の大地に立つ~」と題して、ノンフィクション作家の合田一道氏が講演した。

 合田氏は松浦武四郎が6度にわたって北海道(当時は蝦夷)各地を探検し、書き記した膨大な資料から選んだ古文書をもとに多岐にわたって武四郎の業績を紹介してくれたが、ここではその中から2点に絞ってレポしたい。

 まずは、「北海道」の命名についてだが、明治新政府となって「道名選定之儀」が発せられたことに伴い、当時開拓使の判官だった武四郎は「北加伊道」を含め6つの案を提案し、

「北加伊道」の「加伊」を「海」と改め、「北海道」と命名されたという。

武四郎が「加伊」としたのには、蝦夷地を旅する中でアイヌの長老から「加伊という言葉には、この地に生まれたもの」という意味があることを教えられ、アイヌの人々への思いを込めたのではないか、と伝えられていると紹介された。

また合田氏は、「蝦夷」という文字を音読みすると「カイ」読めるとも話された。

 

続いて、合田氏のお話の中で印象的だったのは、「西蝦夷日誌・五編」の一節である。

難しいが、再現してみると、

 「戌午(安政五年)六月十八日。雇レ馬て出立(石狩、タケアニ。〔支笏〕イタクレイ)。此イタクレイは勇沸より出稼に参り居て、四カ年が間石狩に遣はれ、其間妻子の面見ざりしが、今日の人足に當りて妻の面を見る事よと、如レ此夫妻の間も僅か三十里を隔る計にて逢さず置、其請負人の遣方可レ悪(にくむ)。其譚を竹兄〔前記のタケエアニ〕聞に、此土人の妻は勇沸の番人の妾に成居ると、其故夫を石狩に遣し置て常々番屋へ連行置と語る。是はさもあるべし。シヤリ〔斜里〕の土人をクナシリ〔國後〕へ遣す、必ず其留守に妻は万人の妾に致置有なり。實に是等の事可レ悪の極ならずや。」(文中のレは古文書に見られるレ点の表した)

 

 読み難いとは思うが、武四郎が見聞した和人のアイヌに対する悪行が伝わってくると思う。和人がアイヌに対して理不尽なふるまいをしていたことはたくさん言い伝えられているが、この武四郎の記した文は和人の人後に落ちる行為と言わざるを得ない。

 

 私が最近目にした武四郎の「知床日誌」の中でも次のような記述があった。今度は筆者意訳(桑原真人・川上淳著「北海道の歴史がわかる本」より)の方を紹介する。

「斜里や網走場所では、女が年頃の16、17歳になると、クナシリ島に送られ、本州などから来る漁師達に身を弄ばされ、男は妻を娶るころの年になると昼夜なく責め働かされ、働き盛りの時は遠く離れた離島で過ごすことになるため生涯独身で暮らす者が多く、(中略)夫婦でも夫は遠い漁場に送られ、妻は会所や番屋で出稼ぎ番人の慰み者にされ……」

と書くのも憚れるような悪行を繰り返していたようだ。

           

          ※ こちらもウェブ上から拝借した合田一道氏です。

 合田氏の話はまだまだ多岐にわたったが、武四郎の凄さは、交通の便の何もない原野同然の蝦夷地を6度にもわたって探検し、その際見聞したことを克明に記録し遺したことである。しかもそのほとんどは、一私人として行っていたということも特筆すべきことだ。 

 幕末の世にこうした偉人が存在したこと、私たち和人の祖先にあたる人たちのアイヌに対する悪行について、長く記憶にとどめたい。