講師は強調された。「北海道150年」とは、北海道の歴史が始まってから150年ではない。かつて「蝦夷地」と呼ばれていたところを「北海道」と命名してから150年目なのだと…。北海道の地では、それ以前から縄文文化、アイヌ文化など独特の文化が営々として育まれてきたのだと講師は特に強調された。
「北海道において営々と歴史や文化を育んできたアイヌのことについてもっと知りたい」との思いから、少し遠方なのだが「石狩市民カレッジ」の3回シリーズ「アイヌの側から見た北海道150年」を受講することにした。
やや時間は経ってしまったが、5月31日(木)午前、石狩市花川北コミセンで第1回講座が開催された。
第1講座は「近現代のアイヌ民族の歩みと石狩市」と題して、北海道博物館学芸副館長で、アイヌ民族文化研究センター長の小川正人氏が務められた。
実は小川氏は、私たちが企画実施している野外講座「さっぽろの古を訪ねて」の開設にあたって相談に乗っていただいた方だった。
※ 講師を務められた小川正人氏です。
小川氏はアイヌ民族の近現代史が専門ということで、アイヌ民族が和人と触れ合った時代(19世紀後半 1850年代以降)に生まれ育ったアイヌの人たちとの交友を中心に語られた。
アイヌ民族が和人と触れ合うことになった大きな出来事は1875年の「千島・樺太交換条約」が締結されたことがキッカケだった。
樺太に住んでいた樺太アイヌのうち日本への帰属を希望した(となっているが、実際は開拓使は急迫的に北海道への移住を求めたと小川氏は述べた)樺太アイヌは、最初宗谷へ移住されたが、翌年対雁(現江別市)へ強制移住させられた。気候風土が合わなかったことで伝染病が蔓延し、移住させられた樺太アイヌ850人はたちまちのうちに400人にまで減ってしまったという。
そうした中、対雁(ついしかり)を嫌ったアイヌたちは厚田や来札に再移住を余儀なくされたそうだ。樺太アイヌはその後、墓参と称して樺太へ帰ったきりになる者も出たりして、最終的には日露戦争後、日本が南樺太を取得したことによりほぼ全員の樺太アイヌは帰郷してしまったそうだ。
こうした一連の歴史について、後世になって発刊された「北海道旧土人保護沿革史」では伝染病が蔓延したことについて「かくて病死するもの、実に四百余名に達し、移住土人の大半は対雁原野の露と消えた。あゝ悲惨の極み(一部現代文に変えています)」と記されていて、もっぱら“悲劇”を強調していて、「なぜそうならざるを得なかったのか」についての記述がないと小川氏は指摘した。
このように「北海道旧土人保護沿革史」においては、樺太アイヌを保護したにも関わらず、悲劇が生まれたとするが、その後に著された高倉新一郎の「アイヌ政策史」では「開拓使によって着手された樺太アイヌに対する保護指導事業はこのようにして失敗に帰した」と保護施策の不十分さをはっきりと指摘している。
このような傾向・問題点は、学校・教育の歴史に関わる記述に端的に表れていると小川氏は指摘する。「新北海道史」において、「開拓使は彼らの教育にとくに心を用い」たが、「教育の結果は、しかしあまりかんばしいものではなかった」とし、その理由をアイヌの“無理解”に求め、「生徒はもちろん、父兄も教育の何たるかを知らず、あたかも官のために夫役人足にでも出るようなつもりであった」と責任をアイヌに押し付けるような記述となっている。
※ アイヌ民族のために建てられた学校の開校式での記念写真のようです。
一事が万事、開拓使はアイヌ民族を侮辱的に扱っていたことが文書等からも読み取れる。
驚いたことの一つが、1887年に強制移住地である対雁にアイヌのための学校を建てたのだが、その運営資金はアイヌたちの使役によって得た賃金の一部を充てていたというのだ。
アイヌが対雁を嫌って他の土地に再移住し、アイヌの子弟がいなくなった1890年からは地元町村負担の村立学校になったという驚くべき事実を聞いた。
公の機関である開拓使がこのように樺太アイヌを遇していたのだから、民間においてはもっともっと過酷な人種差別が横行していたものと推察できる。
まだまだ小川氏からはお話をうかがったのだが、それらを全てレポする力量が私にはない。
ただ、小川氏が最後にまだまだ調べ切れていないことが多いという。さらなる史実を解明することにより、アイヌ民族の歴史がより豊かになるだろう、と結ばれた。
私自身、アイヌ民族のことをもっと学ばねば…。
「北海道において営々と歴史や文化を育んできたアイヌのことについてもっと知りたい」との思いから、少し遠方なのだが「石狩市民カレッジ」の3回シリーズ「アイヌの側から見た北海道150年」を受講することにした。
やや時間は経ってしまったが、5月31日(木)午前、石狩市花川北コミセンで第1回講座が開催された。
第1講座は「近現代のアイヌ民族の歩みと石狩市」と題して、北海道博物館学芸副館長で、アイヌ民族文化研究センター長の小川正人氏が務められた。
実は小川氏は、私たちが企画実施している野外講座「さっぽろの古を訪ねて」の開設にあたって相談に乗っていただいた方だった。
※ 講師を務められた小川正人氏です。
小川氏はアイヌ民族の近現代史が専門ということで、アイヌ民族が和人と触れ合った時代(19世紀後半 1850年代以降)に生まれ育ったアイヌの人たちとの交友を中心に語られた。
アイヌ民族が和人と触れ合うことになった大きな出来事は1875年の「千島・樺太交換条約」が締結されたことがキッカケだった。
樺太に住んでいた樺太アイヌのうち日本への帰属を希望した(となっているが、実際は開拓使は急迫的に北海道への移住を求めたと小川氏は述べた)樺太アイヌは、最初宗谷へ移住されたが、翌年対雁(現江別市)へ強制移住させられた。気候風土が合わなかったことで伝染病が蔓延し、移住させられた樺太アイヌ850人はたちまちのうちに400人にまで減ってしまったという。
そうした中、対雁(ついしかり)を嫌ったアイヌたちは厚田や来札に再移住を余儀なくされたそうだ。樺太アイヌはその後、墓参と称して樺太へ帰ったきりになる者も出たりして、最終的には日露戦争後、日本が南樺太を取得したことによりほぼ全員の樺太アイヌは帰郷してしまったそうだ。
こうした一連の歴史について、後世になって発刊された「北海道旧土人保護沿革史」では伝染病が蔓延したことについて「かくて病死するもの、実に四百余名に達し、移住土人の大半は対雁原野の露と消えた。あゝ悲惨の極み(一部現代文に変えています)」と記されていて、もっぱら“悲劇”を強調していて、「なぜそうならざるを得なかったのか」についての記述がないと小川氏は指摘した。
このように「北海道旧土人保護沿革史」においては、樺太アイヌを保護したにも関わらず、悲劇が生まれたとするが、その後に著された高倉新一郎の「アイヌ政策史」では「開拓使によって着手された樺太アイヌに対する保護指導事業はこのようにして失敗に帰した」と保護施策の不十分さをはっきりと指摘している。
このような傾向・問題点は、学校・教育の歴史に関わる記述に端的に表れていると小川氏は指摘する。「新北海道史」において、「開拓使は彼らの教育にとくに心を用い」たが、「教育の結果は、しかしあまりかんばしいものではなかった」とし、その理由をアイヌの“無理解”に求め、「生徒はもちろん、父兄も教育の何たるかを知らず、あたかも官のために夫役人足にでも出るようなつもりであった」と責任をアイヌに押し付けるような記述となっている。
※ アイヌ民族のために建てられた学校の開校式での記念写真のようです。
一事が万事、開拓使はアイヌ民族を侮辱的に扱っていたことが文書等からも読み取れる。
驚いたことの一つが、1887年に強制移住地である対雁にアイヌのための学校を建てたのだが、その運営資金はアイヌたちの使役によって得た賃金の一部を充てていたというのだ。
アイヌが対雁を嫌って他の土地に再移住し、アイヌの子弟がいなくなった1890年からは地元町村負担の村立学校になったという驚くべき事実を聞いた。
公の機関である開拓使がこのように樺太アイヌを遇していたのだから、民間においてはもっともっと過酷な人種差別が横行していたものと推察できる。
まだまだ小川氏からはお話をうかがったのだが、それらを全てレポする力量が私にはない。
ただ、小川氏が最後にまだまだ調べ切れていないことが多いという。さらなる史実を解明することにより、アイヌ民族の歴史がより豊かになるだろう、と結ばれた。
私自身、アイヌ民族のことをもっと学ばねば…。