11月20日(金)午後、札幌市社会福祉総合センターで札幌市主催の札幌シニア大学が開講され参加した。講座は「坂本龍馬と北海道」と題して詩人で劇作家でもある原子修氏が講演した。
たくさんのシニア層が参加していたが、私はシニア大学に登録はしていないので、いわばテーマに興味があってのスポット受講である。
※ 札幌大学名誉教授でもある講師の原子修氏です。
この講座は私にとっては三重苦を味わいながらの講座だった。それというのも、会場の音響設備が劣悪である。講師の原子氏が高齢(83歳)のため発音が明瞭でない。その上、私の聴力にも少々問題がある。という中での受講だったため、原子氏が話すことの半分程度しか理解できないという辛いものだった。
したがって本レポは、かなり不明確なものであることをお断りしておきたい。
講師の原子氏は、龍馬の蝦夷行きを企図したことについて非常にコンパクトにまとめた資料を用意してくれた。それを提示しながら、テーマについて考えてみたい。
提示されて資料はつぎのとおりである。
坂本龍馬は、終生、蝦夷地(北海道の古称、以下北海道とします)渡航を夢見て、果てました。「一滴の血も流さず世直ししたい」という理想に燃えていた龍馬は、日本の将来を“平和の業(わざ)”としての海外通商に托しておりました。彼の理想は、北海道を海外通商基地とし、箱館港を基点に世界にうって出る、という誠に壮大なものでした。
生まれ故郷の高知で米国帰りのジョン万次郎らを通して世界にめざめた龍馬は、江戸で勝海舟塾に入門して塾頭となり、神戸海軍操練所創設に関わり、長崎でスコットランド生まれの英国人豪商グラバーと知り合って、世界通商国家の道を歩み出します。海舟の協力のもと幕船黒龍丸で北海道をめざしますが、京都で池田屋事件が起り、惜しくも挫折します。
神戸海軍操練所も廃止され、龍馬は江戸で外国船による北海道渡航を模索した、という話もありますが、本格的な計画は薩摩藩の家老小松帯刀とグラバーらの協力でカンパニー亀山社中を長崎に創設し、洋帆船ワイルウェフ号を購入し、北海道に渡ろうしたのです。しかし、無念にもその船は嵐で沈没し、又もや龍馬の夢は絶たれます。
海外通商国家の前提は国情の安定です。龍馬は薩長同盟・大政奉還を実現へと導き、一方で、大極丸を購入し、長崎では土佐海援隊を設立して隊長となり、北海道渡航実現を図りますが、船中八策の創案・新政府綱領八策等で新政権樹立に奔走中、暗殺の刃に倒れます。(以下、省略)
この資料からは、幕船黒龍丸、洋帆船ワイルウェフ号、大極丸、と3度船を替えて渡航しようとしたと読み取れる。しかし、講師は確かに4度試みた、と私には聞こえた。とすると、池田屋事件の後、「江戸で外国船による北海道渡航を模索した」というものも数えたのだろうか?
一つ疑問が残るのは、合田一道氏の講義では大きく取り上げられた龍馬率いる土佐海援隊が大洲藩から借用した「いろは丸」のことに全く触れられていないところである。合田氏の講義ではむしろ「いろは丸事件」がなければ、もしかして北海道渡航が叶ったのではないか、と私は考えたのだが…。
まあ、歴史というものは時間の経過と共に、後の者たちがさまざまな解釈することがありがちなので、時として何が真実なのかが曖昧となってしまう場合が多々あるようなのだが…。
※ 初めて受講したシニア大学だが、多くのシニアが受講していた。
リード文で、私は講師の原子氏が詩人であることに触れている。それは、原子氏が講義の中で、「龍馬はいつ覚醒したのか?」という解説の段になって、氏は龍馬の祖母が彼に坂本家の家訓を説いたのではないか、という仮説のもとに、その場面を詩人らしく臨場感いっぱいに再現してみせたのである。
それはほとんどが史実にもとづいたものではなく原子氏の創作なのである。詩人とか、小説家はその作品が必ずしも史実に忠実である必要はない、というようなことを原子氏も話していた。
そうなると、龍馬が企図した蝦夷行きは4度だったの?それとも3度だったの?