田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

勝海舟の「氷川清話」を読む

2015-11-03 16:56:16 | 大学公開講座
 勝海舟の晩年に語った歯に衣着せぬ人物評論である。文体が口語体だったこともあり、私にでも読むことができ、意味も良く分かった。また、海舟の人柄にも触れることができたような「氷川清話」だった。 

                    
                   
 札幌学院大学のコミュニティカレッジ「古文書に見る歴史が動いた瞬間」の第3回講座が10月29日(木)午後、札幌学院社会連携センターで行われた。講師はもちろんノンフィクション作家の合田一道氏であるが、この日のテーマは「海舟『氷川清話』を読む」だった。

 「氷川清話」を著したのは吉本襄という土佐陽明学派の研究者とされている。ところが講座において講師の合田一道氏は巌本善治の名を挙げたので私の中では混乱した。
 帰宅して調べてみると、巌本善治は海舟宅に足繁く通い「海舟座談」を著した人である。対する吉本襄は海舟とも会っているようだが、むしろ海舟の弟やファンが海舟から聞き出して新聞や雑誌に発表されたものを、口語体に直し、編集した上で著したものが「氷川清話」のようなのである。したがって、吉本の「氷川清話」はいかにも都合よく編集されていたため信憑性について後々疑義が呈されてもいるという。

 しかし、今回の講義で手渡された資料は、できるかぎり手を尽くして調べてみたが、どうやら吉本襄作の「氷川清話」のようである。海舟の晩年の談話を採録したということで多少誇張された表現もあるが、面白く読むことができた。
 「氷川清話」の中では、幕末から明治にかけて活躍した多くの人物が語られているが、その中から彼が「恐ろしい人物二人」と題した部分を一部抜き書きしてみる。

 おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(しょうなん)と西郷南洲(なんしゅう)とだ。
 横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教へてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったョ。おれはひそかに思ったのサ。横井は、自分に仕事をするひとではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあつたら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。
 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優るほどだッたけれども、いはゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。
 そこで、おれは幕府に閣老に向って、天下にこの二人があるから、その行末に注意なされと進言しておいたところが、その後、閣老はおれに、その方の眼鏡も大分間違った、横井は何かの申分で蟄居を申し付けられ、また西郷は、漸く御用人の職であって、家老などいふ重き身分をでないから、とても何事も出来まいといった。けれどおれはなほ、横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ。
 (後略)
               
                    

                    

 この後、長々と二人の人物批評が続く。特に海舟は西郷の傑物ぶりにはいたく感じ入り、西南戦争で自決したことを惜しみ、自宅近くに西郷の銅像まで建てたそうだ。

 ところで坂本龍馬の師でもあった海舟は龍馬をどう見ていたのだろうか?他のところで詳しく扱っているのか分からないが、手渡された資料ではほんの少し触れているだけである。「土佐と肥後」と題したところでちょっとだけ顔を出している。

 土州では、坂本と岩崎弥太郎、熊本では横井と元田だらう。
 坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、ななかなか人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(おちつ)いてな、なんとなく冒しがたい威権があつて、よい男だつたよ。
 元田永孚(ながざね)。温良恭謙譲の人で、横井は反対(アベコベ)に乱暴な人だつた。しかし年老つてから、あゝいふ風に変つて、今ぢやア横井、横井と人がいふやうになつたが、若い時は、カラしかたがなかつた。
 

 文章からは、海舟の人を見る確かさと、他からも聞こえてくるようにやや大言壮語的なところも垣間見える内容である。しかし、それがまたこの本に惹き込まれる要因でもある。機会があれば全文にあたってみたいと思った。

 これで今年の合田一道氏の講座も終了した。かなりのご高齢になる合田氏だが、まだまだ元気である。その合田氏が「私が元気であればまたお会いしましょう!」との言葉で解散した。