田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

会津のお殿様の話を聴く

2015-11-28 19:56:30 | 講演・講義・フォーラム等
 松平家の第14代当主、松平保久氏の話を聴く機会を得た。戊辰戦争において朝敵となった松平家だったが、さまざまな苦難を乗り越え、明治42年、松平家から秩父宮雍仁親王の妃として松平節子親王妃が嫁いだことによりその汚名も返上できたというような松平家の歴史を語った。 

                    
                   ※ 講演をする松平家の第14代当主、松平保久氏です。

 11月22日(日)夕方、札幌ホテルヤマチ(琴似1-3)において、松平家第14第当主松平保久氏「愚直ノススメ」と題して講演するのを受講した。
 主催は「琴似屯田兵入村140周年記念」の記念事業に一環として行われたものである。この記念事業では、琴似屯田兵に関わる島津家、伊達家、松平家のそれぞれの当主を招
いての講演会が企画され、今回はその最終回ということだった。
 実は、この記念事業に関わっては私の知人が企画の中心を担っていたことから「ぜひ聴講を!」と誘われていたのだが、都合がつかずに最終回にようやく受講することができたのである。

 保久氏は、会津松平家の藩祖で徳川第2代将軍秀忠の四男保科正之が作成した「会津松平家 家訓十五か条」について触れた。
 その第一条には「一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」とある。
 その意味するところは「将軍家にはひたむきに忠義を尽くせ。たとえ自分の子孫でも徳川将軍に逆意を抱く藩主が現れたら従わなくともよい」ということだという。
 第二条以降にも松平家の教えが種々続いているが、何といってもこの第一条の意味するところが大きい。この第一条が、第九代藩主松平容保が京都守護職の就任を渋ったときに足枷となり、やがては朝敵となっていく遠因にも繋がったのである。

                  
                  ※ 会津藩の藩祖保科正之の画像です。

 さて、会津藩は子弟の教育にも熱心だった藩として知られている。第5代当主容宏のときに藩校「日新館」を創立した。そこでは「什(しじゅう)の掟」いう掟があり、藩士の子弟に徹底された。そこには、

 一.年長者の言うことに背いてはなりませぬ
 一.年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ
 一.虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
 一.弱いものをいじめてはなりませぬ
 一.戸外でものをたべてはなりませぬ。
 一.戸外で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ。

 そして最後に「ならぬことはならぬものです」と書かれてあるそうだ。
 この「日新館」の教え「ならぬことはならぬものです」こそ、会津人の魂を醸成したと保久氏は強調する。だから会津人は「愚かなまでに真っ直ぐ生きる」DNAを宿しているとして講演題を「愚直ノススメ」としたようである。

 藩祖の保科正之の教えに従い京都守護職として、その務めを懸命に果たした松平容保だったが、思いもよらぬ展開から朝敵とされてしまい、薩長に対していくら嘆願しようが聞き入れられず、ついには自死の道を選ばざるを得なくなり、その時容保が発した『儀に死すとも 不義に生きず』という言葉が会津人の心を捉えて離さないようだ。

                    
                   ※ 第九代藩主の松平容保の写真です。

 最後に保久氏は、心ならずも明治の時代に北海道・琴似の地に居を移さねばならなかった会津人の末裔たちが、会津の誇りを忘れずに北の大地で立派に花咲かせてくれたことを誇りに思う、と語って講演を終えた。

 会場は琴似在住の会津藩の末裔の方々を中心に多くの方が保久氏の話に聞き入っていた。時代が平成の世になったとはいえ、会津人にとってお殿様から聴くお話は、私には想像のつかない有り難いお話と映ったのたろうか?