田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

冬季アジア札幌大会は盛り上がる?

2016-02-13 20:46:53 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌では3回目の開催となる「2017冬季アジア札幌大会」がちょうど1年後に迫っている。道民、市民の関心度はどれほどのものなのだろうか? 大会開催1年前記念シンポジウムに参加しながら考えてみた。

                 
        ※ 会場は写真撮影NGのため、このような開催要項を写しました。 

 昨夜(2月12日)、大会組織委員会及び道新が主催する「2017冬季アジア札幌大会」大会開催1年前記念シンポジウムが道新ホールで行われたので参加した。
 シンポジウムは、第1部として、大会PRアンバサダーに就任した長野五輪金メダリストの清水宏保氏と、フィギアスケーターで浅田真央選手の姉として有名な浅田舞氏の二人のトークセッションが行われた。
 続く第2部では、前記二人に加え、国際アイスホッケー連盟の副会長で香港人のトーマス・ウー氏、北海道教育大学教授の山本理人氏、全日本ジャンプジュニアチーフコーチの伊藤克彦氏の5人によるパネルディスカッションという構成だった。

                      

 第1部のトークセッションは、この日(12日)就任したばかりの大会PRアンバサダー
として二人が今後どれだけ大会の盛り上げ役として活躍してもらえるのか、注目していきたい。
 そのトークセッションで印象に残った言葉として、清水氏が「冬季スポーツは、世界に近いスポーツである」と話したことは、北海道の青少年たちに勇気を与える言葉のように思えた。
 また、浅田氏が「北海道のフィギアの水準を高めるには、優秀なコーチの育成が欠かせない」と話したが、フィギアの場合はコーチの存在が何より重要だと指摘できるのは選手経験がある浅田氏ならではのアドバイスと思えた。

                  
                  ※ 2017冬季アジア札幌大会の大会エンブレムです。

 第2部のパネルディスカッションはより本質的な論議が交換されて興味深かった。
 特に興味を抱いたのは、国際アイスホッケー連盟の副会長で香港人のトーマス・ウー氏の登壇である。ちょうど現在、札幌で平昌冬季五輪のアイスホッケーアジア予選大会が開催されていることに伴い来道されたと想像されるのだが、冬季スポーツと無縁とも思われる香港人が国際アイスホッケー連盟の副会長を務めていることに興味を覚えた。
 その答えは、彼の発言の中にあった。冬季スポーツには無縁と思われるアジア各国では、現在都市の中心のショッピングモールなどにスケートリンクが次々と建設されているという実態があるとのことだった。そうしたことがアジアの国々に次々とアイスホッケーチームが誕生していることと結びついているという、意外な事実だった。

               
               ※ 大会マスコットキャラクターのエゾモンだそうです。

 話題は冬季スポーツ愛好者の減少、ひいてはスポーツ選手の減少、そして冬季スポーツの不振に及んだ。
 愛好者の減少について、環境、設備が整っている北海道における残念な現象との指摘があった。そのことに対してパネリストがさまざまな角度から原因や対策を述べられた。
 原因としては、寒さ、趣味の多様化、指導者減、等々…。
 対する対策として、まずは冬季スポーツを体験してみることの大切さを挙げた。その体験してみるための施設の改善を指摘する声もあった。
 また、別な意味からはトップ選手の活躍することで、裾野が広がるとする意見もあった。反対にスポーツに打ち込める環境作りの大切さを訴える声もあった。
 そして、「2017冬季アジア札幌大会」が冬季スポーツ愛好者の裾野を広げる機会となることを期待する、といったまとめになった。

              

 さて、来年の冬季アジア大会が、関係者が期待するような大会となるであろうか?
 私はやや悲観的な見方しかできないのだが、どうだろうか?
 清水氏は「アジア大会はオリンピックに次ぐ大きな大会」だと述べた。確かに、冬季スポーツの総合大会という意味では間違ってはいないだろう。しかし、メディアも含めた注目度という点ではどうだろうか?
 私は競技によって、選手たちの捉え方に大きな差があるように思えるのだ。日本が現在世界に伍して競っているジャンプ陣などはWCと日程が重なった場合は、WCを優先するのではないだろうか? あるいは、フィギア陣なども一線級を出してこないのでは、などと予想してしまう。
 そうならないよう、関係者の努力が望まれる。一般の市民が盛り上がるためには、メディアの存在が大きいように思う。メディアがどれだけ取り上げてくれるか、も含めて関係者が懸命に努力してくれることを望みたい。

 私自身は、やはり来年の冬季アジア札幌大会が盛り上がってくれることを望みたいと思っている。そんな中で、これまで観戦したことのない、バイアスロンとか、スケートのショートトラックなどを、この機会に観戦してみたいと思っているのだが…。

縄文時代の蝦夷地にはイノシシがいた!?

2016-02-12 20:50:11 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 北海道にはイノシシは棲息してはいなかった、というのが学会の定説らしい。ところが、縄文時代の遺跡からはイノシシの骨の遺跡が次々と発掘されるという。果たして真相は?? 

             
             ※ セミナーの後、隣室で開催されていた「赤れんが 北の縄文世界展」を覗いた。
              そこに展示されていた著保内野遺跡から発掘された国宝指定の「中空土偶」(レプリカ)です。

 北海道、北の縄文道民会議などが主催する「縄文雪まつり」なる催しが、先日の「北の縄文セミナー in 紀伊國屋書店」に続いて、昨日2月11日(木)午後、「北の縄文セミナー in 赤れんが」と称して、道庁赤れんが庁舎で行われ、参加した。

             
             ※ 青森県亀ヶ岡遺跡から発掘された重要文化財指定の「遮光器土偶」です。

 祝日とあってか、はたまた道民カレッジ連携講座とあってか、大勢の受講者が詰めかけ会場は満員の盛況だった。
 セミナーは2部構成で、第1部は「さらにわかった!縄文時代の植物利用~編かご・縄利用」と題して(株)バレオ・ラボの統括部長の佐々木由香氏が講演した。
 第2部は「古代人と動物たち~追った・食べた・祭った~」と題して、千歳市埋蔵文化財センターのセンター長である高橋理氏が講演した。

 第1部では、およそ1万5000年前から2,300年前とされる縄文時代において高度な編み方によるかごなどが遺跡から次々と発掘されているという話だった。
 編みかごなどは植物由来であるから当然現物では発見されない。すでに土化(などという言葉があるのか?)されたものとして発掘される。そのため、時代測定や編み方の技法解明が難しかったらしい。
 そこに最近開発されたのが「樹脂包埋切片法」というものだという。この技法(機械)によって顕微鏡用の切片の作成が容易となり、編みかごなどの素材の同定が格段に進歩したという。
 さらには、レントゲンを駆使することにより、編み方などの技法の解明も進んだという。
 その結果、最古の製品は1万500年前のものが滋賀県粟津湖底貝塚から発掘されたそうだ。
 北海道からももちろんたくさんの編み物の製品が発掘されている。
 それらの編み方を解明していくと、実に多様な編み方をされていることが分かり、佐々木氏によると現代編まれている技法のほとんどは縄文時代に編まれていたことが解明されているそうだ。
 縄文人、恐るべし! 土器や石器だけではなく、高等な編み方の技法を既に身に付けていたとは驚きである。

             
             ※ 第1部の講師の佐々木由香氏です。

 そして、第2部である。
 講師の高橋氏は動物考古学が専門とのことで、まずはさまざまなイントラダクション的講義が展開された。
 その中で記すべきこととしては、現在日本の総遺跡数は実に49万5021ヵ所あるそうだ。その中の9,0531ヵ所が縄文遺跡であるという。また、貝塚は全国で約2,500ヵ所、うち北海道には約300ヵ所あるという。
 さて、イノシシである。考古学的には縄文時代に蝦夷地にイノシシが棲息していたという考えは否定されているという。ところが、道内の40ヵ所以上の遺跡(貝塚)からイノシシの骨が発掘されているそうだ。
 そのイノシシの骨の発掘で、北海道の遺跡には一つの特徴があったそうだ。それは、イノシシの幼獣の骨がほとんど発掘されなかったという特徴である。
 このことから、高橋氏は北海道の遺跡から発掘されたイノシシの骨は、必要に応じて本州から運ばれて来たものではないか、と推測した。

             
             ※ 第2部の講師の高橋理氏です。

 縄文人にとって、貝塚に埋めることは祭る(祀る)ことでもあるという。蝦夷地においては縄文後期から続縄文期にかけてクマ祭りが定着していく。その前はイノシシが祀られていたということになるのだろうか?さらなる解明が望まれるところである。

 セミナーの前後には、紀伊國屋書店のときと同じく、茂呂剛伸と「手鼓(しゅこ)」のメンバー6人が縄文太鼓を会場いっぱいに響き渡らせた。

             
             ※ 縄文太鼓を演奏する手鼓のメンバーです。右側が茂呂剛伸氏です。


映画 154 駅 STATION

2016-02-11 22:10:30 | 映画観賞・感想

 ご存じ今は亡き高倉健さんの代表作の一つである。昨日投稿のX-ミッションが莫大な予算を投じて作るハリウッド流大娯楽映画だとすれば、こちらは主人公を巡るさまざまな人間模様を細やかに描く日本映画の傑作の一つと呼んでも良い映画ではないだろうか?

                   
 
 拙ブログに何度も登場する「めだかの学校」の「映画の中の北海道-昭和編」の2月上映会が2月8日(月)午後にあった。
 そこで今回取り上げられた作品が「駅 STATION」だったのだ。
 この作品は1981年に制作され、大ヒットした映画だから多くの人がすでに観賞された映画だと思われる。私もテレビ放映されたものも含めると確か3度目のような気がする。
 映画は主人公の英次(高倉健)を巡る三人の女性の名を冠した一見オムニバスのような形式を取っているところは脚本の倉本聰さんの一ひねりした工夫なのか?

 〔直子〕~いしだあゆみ演ずる、英次の妻である。警察官の英次は過酷な仕事とオリンピックの射撃選手として練習が続いたことが原因で妻・直子と離婚した。とあるが、私は銭函駅で英次に思い直すように諭す叔父?or上司?が言った「一度くらい許してやれよ」という趣旨のセリフが引っかかったのだが…。
 
 〔すず子〕~烏丸せつ子演ずる、増毛駅前の風待食堂で働く娘である。彼女の兄は通り魔のように若い女をなぶり殺しにして警察に追われる身となる。その兄をかばうため、すず子は警察の追及を懸命にかわすが、慕う兄に会いたいがために墓穴を掘ってしまう。

           

 〔桐子〕~倍賞千恵子演ずる、やはり増毛駅前で居酒屋を営む女将である。ふとしたきっかけから英次と親しくなる。しかし、桐子には指名手配になっている元恋人がいた。その元恋人をかくまう桐子の家に踏み込んだ英次は、指名手配犯が銃に手をかけたとたんに反撃して射殺してしまう。

 射撃の名手として各地の凶悪犯罪の犯人を銃殺する任務に疲れた英次は警官を止めることを一度は決心するが、桐子の恋人を射殺し、桐子に背をむかれたことから退職願を破り捨て、増毛駅から勤務地の札幌へ帰っていく…。

                  

 高倉健をはじめとして、女優陣の演技がそれぞれ素晴らしい。特に倍賞千恵子の高倉健に心を寄せていくところの自然さ、可愛らしさが出色である。そして、桐子の店で何度も流れる八代亜紀の「舟唄」が絶妙の効果を発揮している。
 一人ひとりの本当の心のうちは誰もわからないが、観る者それぞれが彼や彼女らの心の内を推し量りながら観る映画ではないだろうか?

 一つだけ、重箱の隅を突くようなつまらぬ指摘をするとすれば、英次があまりにも簡単に犯人を銃殺してしまうシーンに違和感が残った。
 現実の犯人捕捉の場合などは、一発の発砲で致命傷を負わせるようなことはないはずである。ましてや英次は射撃の名手という設定だ。急所を外して撃つことは容易のはずである。それがいきなり心臓部を狙い打つというシーンが確か2度ほどあった。ストーリーの展開上いたしかたない、という解釈も成り立つが、映画全体が素晴らしいだけにちょっと残念に思った場面だった…。

 映画は全編が北海道ロケで制作されたようである。特に増毛町の駅前の様子は1980年代の北海道の田舎の様子が描かれていて、懐かしい思いを持ちながら見入ることができた。


試写会 映画 153 X-ミッション

2016-02-10 22:38:43 | 映画観賞・感想

 次々と繰り出される超一流アスリートによるエクストリームスポーツの数々は手に汗握るものだった。エンターテイメント映画としては間違いなく1級品である。ノーCG撮影という謳い文句もあって、久しぶりに映画の面白さを堪能した。 

                 

 このところ、何故か映画試写会に当たりまくりである。どうしたことか?宝くじでも勝ってみようかな?(宝くじを買ったことがない田舎オヤジである)
 昨夜(9日)、STV主催の映画試写会「X-ミッション」の上映がプラザ2・5で行われた。
 「X-ミッション」のXは、エクストリームスポーツをXスポーツと略されること、そして主人公ユタに出された指令(ミッション)が究極の指令といった意味があると理解した。

          

 どのようなXスポーツが画面に登場したか?思い出してみたい。まず冒頭に登場するクロスバイクである。このシーンで度肝を抜かれてしまった。
 そして、サーフィン、ウィングスーツ、スノーボード、ロッククライミング、などなど、まだまだあったように思う。
 それらのほとんどが本物の世界トップクラスの超一流のアスリートによるスタント撮影だという。映画であるから多少誇張されてはいると思われるものの、私から見たら命知らず技の数々である。

             

 例えば、映画の後半にギニア高原に聳えるテーブルマウンテンから流れ落ちるエンジェルフォールの脇の岸壁を主人公ユタと敵役がロッククライミングするシーンがある。滝の落差979メートルといわれる大岸壁をよじ登るというシーンである。どこまで実写なのか分からないが、一瞬一瞬がハラハラの連続であった。
 ようやく難関を突破し、滝の最上部に達したかと思ったら、そこから滝壺めがけて二人ともダイビングである。その展開には思わず声を出しそうになった。

             
 
 映画は主人公ユタに托された指令を縦糸に、そこへX-スポーツを巧みに横糸として絡ませ、観ている者を一瞬も飽きさせることなく、最後まで引っ張っていってくれた。
 試写会を観た多くの観客はかなり満足したようだった。長い、長いエンドロールが始まった。(私には10分近くもあったように感じたが)数人の人が立ち上がったが、ほとんどの観客が余韻を楽しむように長い、長い、エンドロールの間も席に座ったままだった。

                    

 アクション好きなら、スポーツ好きなら、間違いなく興奮できる映画である。
 年甲斐もなく、興奮冷めやらぬ思いで劇場を後にした田舎オヤジだった。


北海道低山紀行 至福の冬山山行 三角山~奥三角山縦走

2016-02-09 14:36:09 | 北海道低山紀行 & Other
 日本三百名山を踏破し、道新の「山楽紀行」のコラムを連載されている坂口一弘氏と冬山に同行する機会を得た。冬山と云っても、私が同行できるレベルの三角山~大倉山~奥三角山を縦走するという簡単な山行だったのだが…。私は憧れの坂口氏と至福の3時間を過ごしたのだった。 

  
  ※ 奥三角山山頂からのパノラマ写真です。ちょっとミスってしまったところが分かりますか?  

 坂口氏から、氏の来札を機会に「一緒に三角山でも登りませんか?」とのお誘いを受けた。断る理由など何もない。私は即座に「是非に!」と回答した。
 坂口氏の来札理由は、2月7日(日)に開催された「札幌国際スキーマラソン大会」の50キロの部に参加することだった。そして、その翌日(8日)に三角山~奥三角山の縦走をしてみませんか、という提案であった。

 2月7日夜、50キロの部を完走された坂口氏と完走祝いをしたのだが、「きつかったぁ!」とおっしゃる割には、私の眼にはそれほど疲れた様子には見えなかったところが超人である。翌日、私は午後から予定が入っていたため、我がままを云って午前8時登山開始とお願いした。

            
            ※ 奥三角山山頂近くの尾根部分の登山路です。山頂は間もなくです。

 翌8日午前8時、天候はこれ以上望めないというくらいの快晴、無風という絶好のコンディションに恵まれた。スノーシューは必要なし、坂口氏はスパイク付き長靴、私は軽アイゼン装着といういでたちで登山を開始した。
 坂口氏は、いつもそうするように初心者である私を前に行かせ、坂口氏は後ろからサポートするという形で登りはじめた。
 三角山は手軽な山でもあるので、登山者が多い。前日雪が降ったにもかかわらず、たくさんの踏み跡がついていた。坂口氏は絶えず話しかけてくれる中で、私はそれに応えなくてはならないので、息が上がらない程度の速さで登り続けた。

            ※ 奥三角山の尾根部分を往く超人坂口一弘氏です。 

 手軽な三角山とはいっても、冬季ならではの近道が設定されていて、軽アイゼンがようやく効くらいの急登の中にはあった。それでも35分後に三角山山頂に到達した。山頂からは札幌の街並みが良く眺めることができた。一休みしてすぐに大倉山に向かった。

 北海道の山を知り尽くしている坂口氏が、三角山から先は初めての経験だという。ということは、それくらい専門家から見ると、どうでも良い山なのかもしれない。(三角山を愛している方々には申し訳ない話なのだが…)
このルートは、縦走経路中最も急峻な上り下りのあるところである。軽アイゼンも効かないところがある。私は横向きになりながら下りたところが何ヵ所かあった。
 何ヵ所かのピークを越え、大倉山のジャンプ競技場のスタート地点に到達した。スタート地点にはリフトで上がってきた観光客の方々がいて、その中の大阪のおばちゃん(?)が「いゃ~、これは最高やわ~!」と感激していたのが印象的だった。

            
            ※ 奥三角山の山頂から見えた盤渓スキー場です。新設のハーフパイプのコースも見えます。

 大倉山を後にし、最終目的地の奥三角山を目ざした。眼前に奥三角山が望めるところがあった。ここで、私のカメラがトラぶっていることに気付いた。直ぐに修正したが、ここまで撮ったと思っていた写真の全てが記録されていなかったのだ。ん~む、残念!!
 奥三角山も一度下ってからの上り返しとなる。三角山と比べるとやや規模は大きく巻いて上るコースだが、まあ難なく上ることができた。山裾を巻くときは日陰だったが、尾根に出ると直射日光が気持ち良かった。大倉山からはおよそ40分で登ることができ、山頂に到達した時は9時40分だった。
 ここの山頂からの眺めも素晴らしく、周辺が手に取るように望め、気持ち良かった。
 快晴とはいっても、山頂はやはり氷点下である。持参したポタージュスープが体を温めてくれた。
 ちょうど山頂に一人の登山者がいたので、坂口氏と二人で記念の写真に収まった。            

 帰り(下山)は、来た時とそのままのコースではなく、坂口氏が上りながらもコース観察をしていたことで見つけたショーツカットのコースを取ったり、三角山には再び登らずにコル経由で下山したこともあり、約40分で登山口まで下りることができた。
 坂口氏に護られるようにして往復した三角山~奥三角山縦走は、好天も相俟って至福の3時間だった…。

日本の中に息づく縄文の精神

2016-02-08 19:59:34 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 いま一つ関心の持てなかった縄文の世界だが、今回の講座を受講し、縄文人の精神が今の私たちに脈々と息づいていることに気付かされた。縄文の精神を大切にすることこそ、今の地球を救う道ではないのか、と思ったのだが…。 

 2月6日(土)午後、北の縄文道民会議などが主催する「北の縄文セミナー」が紀伊國屋書店のインナーガーデンで開催され、参加した。
 会場が狭いこともあったが、満員盛況の人気だった。

 セミナーはまず「縄文太鼓演奏」から始まった。太鼓奏者の茂呂剛伸さん率いる5人が縄文土器の複製にエゾシカの皮を張った太鼓によって演奏された。時に荘厳に、時に激しく太鼓を打つ様が聴いている私たちの心を揺さぶった。

                    
                    ※ 縄文太鼓奏者のリーダー茂呂剛伸さんです。

 続いて、南茅部町や函館市において永らく道南の縄文文化の発掘に尽力され、現在は北海道縄文世界遺産推進室に勤務されている阿部千春氏が「縄文の生活と現在」というテーマで講義された。講義は、私にとってとても分かり易く、内容が整理されたお話だった。

            
            ※ 講義をする阿部千春さんです。

 講義の概要を記すと、縄文時代は最後の氷河期が終わった1万5千年前に始まったとされる。それから、南茅部縄文遺跡群の発掘実績を時系列に並べて説明された。それによると、南茅部周辺では9,000年前、6,500年前、4,500年前、4,000年前、3,500年前と次々と遺跡が発掘されたそうだ。
 その中で特徴的なことは、縄文人が死者を弔うことの意味を遺跡に遺していたこと。さらには、人間だけではなく食した生物の遺骸、生活の道具まで、全てに魂が宿っているとして手厚く葬っていることが、貝塚とか、盛土遺構として表されていると話された。

 3,500年前には南茅部遺跡を一気に有名にした「中空土偶」が著保内野遺跡から発掘されているが、その土偶は男性には黒色が、女性には紅色が施されているそうだ。また、男性の土偶には偶数の、女性の土偶には奇数の模様が施され、縄文人が二項融合の原理に基づく世界観を持っていたのではないか、と説いた。

              
              ※ 講師の阿部千春さんの近影です。

 ことほど左様に、縄文人は高い精神性をもち、自然の中に生かされている命、自然と共にある人間、という崇高な世界観を抱いていたのではないかと阿部氏は強調した。
 あの世界的な作家、アンドレ―・マルローが伊勢神宮を訪れたとき、「日本はアジアの中にあって異質である。特に死生観にそれが現れている。幾度も幾度も立て直す伊勢神宮は大聖堂よりもピラミッドよりも堅牢で力強い」と発言したそうだ。

 日本の歴史は、縄文から弥生、そして青銅へと移っていくが、北海道・東北では敢えてそれを拒否し、縄文から続縄文へと、漁労・狩猟・採集の生活に拘り続けた稀有な地域であるという。
 この日本人の深奥に眠る縄文文化が花開いた北海道・東北の地をぜひとも世界遺産に登録されるよう皆さまの力を借りながら努力したい、と結ばれた。

           
※ 縄文太鼓は文字どおり縄文土器を反響部分に用いた太鼓です。

 冒頭に触れたように、私はいま一つ関心の薄かった縄文文化だが、お話を伺い俄かに興味が出てきた思いである。
セミナー後の質疑で、アイヌ民族だという方が、縄文文化の精神はアイヌに引き継がれているとした。但し、アイヌ文化は形として遺す文化ではなかったが、そのことも忘れず世界に縄文文化の尊さを訴えていってほしいと強調され、阿部氏も大いに同意していた。
 私にとってはアイヌ民族について理解することは私自身の一つのテーマである、縄文とアイヌが結び付いているということになると、なおさらのこと関心を抱かねばならないテーマの一つとなった。

※ なお、今回の原稿は、講義の内容、アンドレ―・マルローの言葉などについて、時間がなかったこともあり十分な裏付けを確かめておらず、私のメモだけによっていることをお断りします。


ポーランド映画 152 灰とダイヤモンド

2016-02-07 14:04:47 | 映画観賞・感想

 「下手な鉄砲 数打ちゃ当たる」という諺があるけれど、命中率が悪いと私の場合は困るのである。私のブログは私が体験したことを綴ることをコンセプトとしている。だから私が体験することが思惑と違うと焦ることになってしまう。今回の場合がまさにそのケースだった…。 

            
            ※ 映画「灰とダイヤモンド」のラストシーンです。主人公がゴミの山のところで死んでいくシーンです。

 新聞に北海道ポーランド文化協会が主催する「ポーランド映画会がある」との告知が出ていた。しかも無料で!
 ポーランド映画…。う~ん、深刻な映画かな?ということが頭をよぎったが、エンターテイメントの映画ばかりじゃつまらない、たまあには考えさせられる映画もいいかも、と参加を決めた。

            
            ※ 講義に先立ち、ポーランド文化協会の方が挨拶されました。

 2月5日(金)夜、会場である札幌エルプラザに向かった。
 会場はエルプラザの大して大きくない研修室だった。しかも、スクリーンは移動式の簡易なものだった。うん?いくらポーランド映画と云ってもずいぶん地味な環境、装置だな…と思った。
 新聞の告知では、ポーランド映画に精通する方の解説もある、となっていた。
 机上にはそのレジュメが配布されていた。それを見ると、14項目も項立てがなされたレジュメが置かれていた。えっ?そんなに映画の前に解説するの?という疑問が私の中に広がった。ここで私の中には俄かに不安が広がった。

 不安は見事(?)に的中した。もう一枚、今回のイベントの告知文書に目をやると、文書の片隅に小さく「※映画上映会ではありません」とあるではないか! 参りました…。
 そしてそこには次のような一文も添えられていた。「ポーランド映画『灰とダイヤモンド』について、ポーランド文化研究者・映画通であり、通訳としてワイダ監督とも親交のある久山宏一氏をお迎えして、一緒に語り合いましよう」とあるではないか!

 思惑は見事に外れたが、いまさら帰るわけにもいかない。私は時間中付き合う羽目となってしまった。
 で、講師の久山氏の話だが、私には難解を極めた。それも無理ない話だろう。映画「灰とダイヤモンド」のことも、それを監督したアンジェイ・ワイダ監督のことも私は初耳というのだから問題外なのである。久山氏の話は、そんなことは受講者が常識として備えているものとして話を進めるのだから…。

           
           ※ 講師の久山宏一氏です。彼のマニアックな話には付いていけませんでした。

 映画「灰とダイヤモンド」は1958年にアンジェイ・ワイダ監督によって制作され、世界の映画監督に影響を与えたワイダ監督の代表作だそうである。講座では映画の一部が上映されが、白黒映画で1945年にポーランドがドイツから解放された直後の世情を背景とした映画である。

 久山氏は、アンジェイ・ワイダの特徴として、1) 文体がはっきりしない。構図絶対主義。2) ロマン主義。3) 現代・戦争・文芸が対象。4) 連作性への志向。を挙げたが、私にはまったく理解できない。
 そして久山氏は、ワイダの「灰とダイヤモンド」が日本のヌーベルバーグ(新しい波)監督と称された大島渚や吉田喜重たちに大きな影響を与えたと指摘し、彼らの作品の一部を上映しながら解説した。
 久山氏は、大島渚監督の「青春残酷物語」、「太陽の墓場」、「日本の夜と霧」、吉田喜重監督の「ろくでなし」、「甘い夜の果て」を取り上げ、そのカットの中に「灰とダイヤモンド」の画面に触発された部分があると、映像と共に指摘した。
 確かに指摘されてみれば、その通りであるが、私からみるとあまりにもマニアックな映画の観方であり、重箱の隅を突くような話に思えたのは、私が門外漢ゆえか?

 今回の講座において私は、1950年代にポーランドにおいてアンジェイ・ワイダという監督が「灰とダイヤモンド」と映画でもって世に出、映画界に大きな影響を及ぼしたということだけは知ることができた。しかし、私にとっては受講動機とは思惑の違ったものになったことが残念であった…。


ヒグマとの共存を考える Part Ⅱ

2016-02-06 22:25:50 | 講演・講義・フォーラム等
 「SAPPOROヒグマフォーラム」のパネルディスカッションは札幌地域のヒグマの出没状況やそれに対する対策などについて多くの提言があった。ヒグマの研究者から話を聴く機会などそう多くはないので、興味深く話を聴いた。 

 2月1日(月)午後、札幌エルプラザで開催された「SAPPOROヒグマフォーラム」は、知床財団の増田氏による基調講演に続いて、パネルディスカッションが行われた。

 パネルディスカッションの登壇者は、ヒグマのことについて長く研究されている道立総合研究機構の間野勉氏、ヒグマウォッチングを続けるNPO環境保全事務所の早稲田宏一氏、行政の立場から札幌市みどりの活用担当課長の西紀雄氏、基調講演をされた増田泰氏、そしてコーディネーターも務められたヒグマ研究の第一人者でもある酪農大の佐藤喜和氏の5人であった。

             
             ※ コーディネーターを務めた佐藤喜和氏(左)と札幌市の西紀雄氏です。

 まず、早稲田氏が近年の札幌近郊におけるヒグマの年毎の出没状況についての発表があった。それによると、H23年度に大量の出没が記録されて以来、それ以降は減少傾向にあるとした。最近の特徴としては簾舞・滝野地区での出没が記録されているとした。
 出没の状況をプロットしたものを見ると、H23には市街地にかなり近い藻岩山周辺での出没が記録されている。それが近年減少していた。
 この原因と考えられるのは、藻岩や小別沢に出没し、農作物などを荒らしていた母子グマが捕獲されたことがその原因と考えられると話された。

 今後の変遷について間野氏は、このまま減少傾向とはならないだろう、と警告した。捕殺された母子グマは札幌近郊における生息数が増えたことによって生息区域が拡大した結果である。したがって依然個体数としては増加傾向にあるという。その中にあって雌(母)グマの行動半径は狭く、札幌から遠くへの移動は考えられないという。(雄グマの行動半径はかなり広範囲らしい)

 西氏は行政の立場から、出没時の対応、出没の抑制策、知識の普及啓発が課題であるとした。また、クマの出没が相次ぎ、農業被害を出した小別沢地区には電気柵も導入したが、そうすると電気柵を施していない周辺の農地が荒らされるといういたちごっこの状況も生まれていて、その対処法も課題となっているとした。

             
             ※ 写真左から、増田泰氏、真野勉氏、早稲田宏一氏の3人です。

 ヒグマを人から守るという対策と同時に現在では生物多様性の保全という問題との間で両ばさみとなっている状況もあるが、この課題に対して多様な価値観が存在する札幌にあって合意を形成することにチャレンジしなければならないとした。しかし、増田氏からは小さな自治体であっても合意形成には難しい面があるとした。斜里町にあっても直接被害を受ける人と、そうでない人。観光面への配慮等、難しい面があるとした。

 まだまだ議論はたくさんあったのだが、議論を聴いていて、まだまだ課題は多いことを実感した。
議論には出てこなかったが、どこかで聴いた話として、この問題の一つは、私たちがクマの生息地に近づいて行っている(登山や山菜狩りで)という認識を持つ必要があると言われたことを思い出した。そうは云っても、登山愛好者の行動を制限したり、山菜狩りを禁止したりすることは事実上無理なことである。
 私たちは、クマの生態を知り、クマの行動を把握することによって、クマにできるだけ近づかないという、当たり前の結論しか出てきそうにない、と云えようか?¿


ヒグマとの共存を考える Part Ⅰ

2016-02-05 15:58:32 | 講演・講義・フォーラム等
 あの怖~い山親爺の話である。生物多様性が叫ばれる今、私たちは怖~いヒグマとも共存を図らねばならない。札幌市が主催した「SAPPOROヒグマフォーラム」に参加し、研究者たちの話に耳を傾けた。
 
             

 登山愛好者と云えるほど山に登っているわけではないが、それでも時々山に登るときはヒグマの動向が気になる私である。平成23年のときなど、札幌近郊にヒグマが出没したというニュースに接したときには、山へ向かう意欲が萎えてしまった経験もある。

 2月1日(月)午後、札幌エルプラザにおいて「SAPPOROヒグマフォーラム 市民ヒグマ講座」が開催され、参加した。フォーラムは2部構成となっていた。

 第1部が「知床のヒグマ事情 ~知床世界自然遺産における保護管理~」と題して、知床財団事務局長の増田泰氏が基調講演をされた。
 続いて第2部では、「市街侵入抑制策と共存に向けて」と題するパネルディスカッションに5名が登壇され、さまざまな角度からテーマに迫った。

 基調講演において増田氏は概略次のように語った。
 世界自然遺産管理区域におけるヒグマは基本的には保護される動物である。したがって、知床財団としてはヒグマと人間の接触を避けるように努めている。
 その対策方針(ヒグマ保護管理方針)は、「ゾーニング」と「行動段階」によって対策を行っているとした。
 ゾーニングとは、知床地域を段階的に5つのゾーンに分類しているという。
それは、1~国立公園奥地など。2~森林。3~国立公園遊歩道など。4~農村地域。5~市街地の5つに分類しているそうだ。
 さらに行動段階を4段階に設定し、0段階~回避・逃走。1段階~逃げない。2段階~実害。4段階~攻撃の4段階に設定しているという。
 この二つの要素を組み合わせて、最善の対策を講じているということだった。

 次に、ヒグマとの共存を目指すための「知・守・伝」について触れた。
 「知」とは,クマを知ることである。そのための調査研究は欠かせないとした。
 「守」とは、クマを守る。人を守ることである。そのために(1)誘引物などの除去などの「予防対策」。電気柵の設置などの「防御対策」。威嚇や追い払い、捕獲などの「直接的対策」を進めているということだった。
 「伝」とは、地域住民、知床観光客へのヒグマのことを伝える啓宣・啓発活動を地道に進めることも大切であるとした。
 最後に増田氏は、ヒグマは優れた環境対応能力があるとした上で、人が変わることで回避できることもあると指摘して講演を終えた。

 続いてパネルディスカッションに移ったが、こちらもなかなか興味深いディスカッションだったので、詳しくレポしたいと思うので、明日に続けたいと思う。

蛇腹夜会 in ガンゲット・ダイマ

2016-02-04 22:17:59 | ステージ & エンターテイメント
 その店は、札幌の中でも比較的ディープな街とされている創成川の東、二条市場の片隅にあった。店内はというといかにもパリの下町にある居酒屋風。月に一度の蛇腹夜会はいろんな人が次々と演奏し、賑々しく夜が更けるまで続けられた。

             
             ※ 客が入る前のガンゲット・ダイマの店内です。
 
 拙ブログの11月26日付で「パリ・ミュゼット 素敵な音に出会った!」という一文を投稿したが、その際「いつか彼女たち(バル・ミュゼット楽団 LA ZONE)の本拠地ガンゲット・ダイマを訪れたい」と記していた。
 1月31日(日)、ガンゲット・ガイマで彼女たちが演奏する「蛇腹夜会」があることを知った。
 単独で未知の店に入るほどの度胸は持ち合わせていなかったので、音楽好きのH氏に同行を打診すると快諾してくれたので、二人で訪れた。

             
             ※ 私たちはこの入口を探すのにかなり苦労しました。

             
             ※ 店は階段を上がった二階にあります。いかにもディープな雰囲気が漂います。

 私たちは開演(開店?)前の午後6時半過ぎに訪れたので、先客は一人だけだった。
 事前に電話をしていたこともあり、店のスタッフ(楽団メンバー)は親切に対応してくれ、パリの下町で好まれる料理、飲み物を紹介してくれたので、そのお勧めをオーダーした。

             
             ※ フランスのビール Kronenboarg(750円)だそうです。濃厚な感じでした。

             
             ※ 「貧民街のクスクス」という、じっくり煮込んだラムシチューを粒パスタと一緒に食す料理(900円)

 午後7時、なんとなく「蛇腹夜会」が始まった。なんとなくと記したが、隣で食事を楽しんでいた人が、アコーディオンを手にステージ(といってもただ前へ出ていくだけなのだが)に出ていって演奏するのだ。そのレベルがお世辞にも上手いとは言えない腕前なのだ。登場する人たちがアコーディオン好きなのは分かるのだが、まだ発展途上といった感じの人たちが次々と登場した。そのうち、アコーディオンばかりでなく、ウクレレやリコーダーの人まで登場するといった有様だった。
 それでも、シャンソンを歌った赤間蘭奢さん(彼女はLA ZONEのサポートメンバー)や三本のハーモニカを操った方は聴き応え、見応えがあった。

             
             ※ 本格的になり切って登場した赤間蘭奢さんのステージです。             

 店のHPによると、「蛇腹夜会」のコンセプトは「蛇腹夜会は、ガンゲット・ダイマで毎月最終日曜日に開催されるプチ演奏パーティーです。アマチュアのアコーディオン奏者の方でも気楽に腕だめしができます。アコーディオン以外の楽器の方も、聴くだけの方もご参加いただけます。ご予約は不要、飛び入り演奏大歓迎です」となっていた。納得である。

 そして、待ちに待ったご本尊たち(LA ZONE)が登場したのは、午後9時半ころだった。
 登場したのはボタンアコーディオン奏者で、リーダーの長嶺久美子さん、ピアノの三重野直美さん(ガンゲット・ダイマの店長)、バンジョーの小林朋子さんの三人のコアメンバーに、サポートメンバーのパーカッションの佐藤いずみさんの4人だった。もう一人のクラリネットの長崎亜希子さんは都合で参加していなかった。

                
                ※ LA ZONEのコアメンバーの3人です。右から小林、三重野、長嶺です。
 
 長嶺のボタンアコーディオンが奏でられ始めると雰囲気は一変した。そこはもう完全なパリ・ミュゼットの世界である。それくらい長嶺のアコーディオンの腕は卓越しているように私には聴こえてくる。彼女のボタンアコーディオンを中心に他のメンバーの演奏も非常にしっかりしているグループだと思った。

             
             ※ この日はコアメンバーの3人+パーカッションの佐藤が加わった演奏でした。

 ちなみに「パリ・ミュゼット」についてもう少し説明しよう。
 「パリ・ミュゼット」とは、20世紀初頭のパリで大流行した、アコーディオン中心のアンサンブルによって演奏される大衆音楽です。当時のパリ庶民は、軽快でありながら哀愁を帯びたこの音楽が流れるガンゲットやバル(ダンス酒場)で、踊り、語らい、そして酒を酌み交わしました。これらの酒場は「バル・ミュゼット」と呼ばれ、週末には何処も超満員だったという。
 その「パリ・ミュゼット」の曲を一曲だけユーチューブから拝借して貼り付けておくので、よかったら聴いてみてください。「ミュゼットの女王」という曲です。

             
             ※ 最後はこの日入店していたアコーデオン奏者も交えての大合奏となりました。

 LA ZONEの演奏は、彼女らだけではなく、赤間蘭奢さんの歌を交えたり、客の中のアコーディオン奏者を交えたりして、いつ果てるともなく続くのではと思われた。
 そんな中、10時半頃だったろうか、長嶺が「中締めとしましょう」と云って演奏を終えた。ここからは仲間同士の時間と思えたので、私たちは退散することにした。

 LA ZONE…、これからも彼女らの音を聴いてみたいと思った。