吉田拓郎のニューアルバムであり、そしてラストアルバムでもある「ah-面白かった」が、届いた。
氏の52年間のアーティスト活動のうち、私がリアルタイムで知っているのは、ほぼ40年くらい。
中3の時に「貸しレコード屋」で借りてきた「TAKURO TOUR 1979」というアルバムは、まさにスイカをストライクで叩き割ったかのような、爽快な衝撃を与えてくれた。
そして、その冬にFMラジオで聴いた「広島FM開局記念ライヴ」。
そこから、私と拓郎氏との歴史は始まったのだ。
私の感性というか、考え方を育てたであろう人物は、3人いる。
なんといっても筆頭は、やはり吉田拓郎氏。
その次は、ほぼ同時期からその著書を読み漁った、徳大寺有恒氏。
そして高3の時に、雑誌「Number」でのインタビューに感銘させられた、落合博満氏。
このお三方が、私の思考回路を形成したのだといっても、差し支えない。
中でも、やはり拓郎氏の歌は、いつも私のそばにあり続けた。
時には勇気をもらい、前に進む力となり、同時に「肩の力を抜くことの大切さ」をも教えてくれた。
中3の時に出会った「吉田拓郎」が「獅子丸」を育てたのは、間違いのない事実なのだ。
・・・だから「獅子丸」は、この程度の人間なのか・・・
という影の声が聴こえてきそうだが(苦笑)
まあ、それはそれ、ということで。
今年で76歳になった、拓郎氏。
いわゆる「後期高齢者」である氏が、ここまで現役であり続けていてくれたことに、心より敬服する。
ひるがえって自分自身が、76歳まで働き続けることができるかと考えると・・・正直、まったく自信が無い(^^;
ともあれ、このアルバム。
CDを聴いて、メイキングDVDを観て、それから再度CDを聴くと、より味わい深く愉しめる。
DVDのナレーションは、篠原ともえ嬢。
あの「LOVE LOVE・・・」の時代には「グフフ・・・」と笑っていたともえ嬢が、ものすごくステキな女性になっていて、「隣にすわっていたら惚れてしまう」レベルに、昇華されていたことに、とても驚く。
そして、同封された「ライナーノーツ」を読んでいると、まるで拓郎氏が自分に話しかけてくれているかのような錯覚に、とらわれる。
最後の最後に「渾身かつ珠玉の作品」を贈ってくれた「吉田拓郎」様に、あらためて、感謝なのです。
ゆったりと風呂に浸かりながら。
気が付いたら、口ずさんでいるのが、この曲。
あらためて思うに、これは詩の内容からいくと、「春だったね」の続編なのかも。
拓郎の歌は、別れの歌であっても、いわゆる「恨み節」ではない。
そこが、実に心地いいのだ。
♪もう恨むまい もう恨むのはよそう・・・ですからネ。
おとといのハナシだが。
遅ればせながら、「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」を、radikoで聴いた。
そこで、拓郎氏が絶賛していたのが、👆の「横田良子」さんが歌う「流星」である。
そのハスキーな柔らかさを持つ、voice。
彼女の歌うこのテイクは、私のハートにも、じんわりと浸透した。
さらには、「ハルカトミユキ」さん。
これまた、弾き語りってのが佳い♪
途中でフェイドアウトしてしまうのだが、フルコーラスを聴きたかったなァ・・・!
それにしても・・・本家の拓郎氏に大絶賛されるなんて、まことに、羨ましい。
私も、いつの日か、拓郎氏の琴線に響くような歌を、YouTubeにアップしたいものだが・・・やっぱ、無理かな(^^;
先日、小松菜奈嬢と結婚したことを発表した、菅田将暉クン。
彼がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で、結婚を生報告した際。
エンディングで流した曲が、吉田拓郎氏の「人生を語らず」だったという。
う~ん、なんと素晴らしいエピソードなんでしょう
ストレートなようでいて、実は含蓄というか示唆に富み、当時中学生だった私のハートを鷲掴みにした、この曲。
つい最近まで、彼のことを「かんだまさき」かと思っていた私だが・・・
彼のことが、ちょっと、好きになった◎
こないだの朝刊に、興味深い記事が載っていた。
洋式便器使用時の「座りション」の男性が、いまやなんと6割に達するのだという。
かくいう私も、もう20年以上前から、それを実践している。
そのきっかけとなったのは、なんといっても、TV番組での吉田拓郎氏の進言である。
「僕は洋式トイレで小用を足す時は、かならず座ってしている」
「やはり、掃除する人の身になって、みなさんも、ゼヒそうしましょう」
実際、私も単身赴任時代に、「座りション」のありがたさを、実感した。
「座りション」の男性が10割になれば、世の女性の負担は大いに軽減されるハズだ。
「トイレルック」や「トイレクイックル」の需要が減って、ライオンや花王の業績に悪影響を与えてしまうかもしれないが・・・
永遠の嘘は、真実になる。
浮気は、バレなければ、誰も傷つかない・・・かどうかは、さておいて。
かつて拓郎が「さんまのまんま」に出演した時。
さんま氏が「ホントにあの頃のアナタの歌は凄かった。カリスマでした!」と言うと、
拓郎は「あの頃の僕の歌は全部嘘だったんです!」と言い放った。
それをTVで見ていた中島みゆき。
彼女は、実は、学生時代からの「吉田拓郎フリーク」である。
その後日。拓郎が、みゆきに楽曲の提供を依頼した。
「遺書のような曲を」と。
そのようなバックグラウンド・ストーリーを持つのが、この「永遠の嘘をついてくれ」なのだという。
♪君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
都市伝説かもしれないが、これは、おそらくは「永遠の嘘」≒「真実」なのだ。
♪人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから・・・
深く、そして、鋭い。
永遠の名曲である。素晴らしい。
今こそ、君も、永遠の嘘をつこう。
この曲を初めて聴いたのは、’82年の12月だった。
当時、受験やら、友人関係やら、恋愛やら、様々な悩み(今考えると全然大したことないのだが)を抱えていた多感なモラトリアムの私のココロに、この歌は砂に水が染み入るかのごとく、じわーっと浸透した。
本当に、感動に、打ち震えた。
この時代の私の気分を、自分以上に的確に表現してくれているその拓郎の歌詞に、心から共感した。
それから、ほぼ40年の歳月が経過したが、吉田拓郎という人がしっかりと足を地につけて、今なお歌い続けてくれていることに、感謝するしかない。
拓郎さん。
75歳、おめでとうございます🎉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/b2/1f049fad45e38a8419d9b92962d249f6.jpg)
'82年に「TAKURO TOUR 1979」を聴いて。
そこにいる拓郎の雄々しさに度肝を抜かれ、そこから拓郎フリークになった私。
だが、’80~’81年にかけてリリースされていた彼のシングル盤については、どうも「TOUR 1979」の中の拓郎のイメージとはかけ離れていて、なんだか軟弱でつまらないものばかりだと思っていた。
結局、当時の私は、まだコドモだったのである。
ある程度色々な経験を経て、年輪を重ねると。
この「サマータイムブルースが聴こえる」という楽曲の甘くてほろ苦い切なさが、理解できるようになるのかもしれない。
この曲は、シングル盤とその後「王様たちのハイキング」等のライヴ盤に収録されているものとで、かなり歌詞が異なっている。
あくまで私の想像だが、拓郎は作詞した松本隆氏の了承を得ずに、自分の心情にしっくりくるように、勝手に歌詞を変えて唄っていたのではなかろうか。
そして、私もこの曲に関しては、ライヴヴァージョンの方が、しっくりくる。
この曲の良さは、一般ピープルには、かなり分かりづらいと思われる。
「分かんねー奴には、分かんなくていいし、それでイイんだヨ」という、拓郎流の、名曲のひとつなのだ🎸
中3の夏に、「TAKURO TOUR 1979」を貸しレコード屋で借りて聴き、スイカをストライクで叩き割ったような衝撃を受け。
さらにはその冬に、FM放送の「吉田拓郎 Live in Hiroshima 1982年12月5日 / 王様達のハイキング」に触れ。
私はすっかり「吉田拓郎」という人に、魅せられてしまった。
そして、高校入学を控えた、1983年3月11日。
拓郎氏が萩本欽一氏のバラエティ番組「週刊欽曜日」に出演したのを、喰い入るように観ていたのを憶えている。
当時高級品だった「ビデオデッキ」は我が家には無かったので、それは記憶の中だけにある映像だったのだが・・・
この、IT時代。
親切な方が、なんとその時の放送を、YouTubeにアップしてくれたではありませんか
当時36歳の拓郎氏だが、なんというか、笑顔が実にチャーミングだ。
マリンバの演奏では、さすがにミュージシャンといった一面を、地味ながら垣間見せてくれる。
そしてそこで、欽ちゃんや佐藤B作氏から作曲のオファーを受け、「頑なに断っていた」拓郎氏だったが・・・
なんだかんだいって。
結局のところ、風見慎吾氏に「僕 笑っちゃいます」を提供してしまうところが、氏のお茶目で偉大な点である。
いやはや、すんばらしい🎵
拓郎、イイ人だ(^^)
吉田拓郎氏の曲というのは、年月の経過とともに響くというか、ココロの襞をくすぐる曲が、多い。
たとえば「流星」あたりが、その典型的な楽曲である。
「LOVE LOVE あいしてる」のテーマソングだった、この「全部だきしめて」。
あの番組がオンエアされていたのは1996年10月5日から2001年3月31日だというから、もう20年くらい前のことになってしまった。
そして、今この曲を聴くと、元気が湧くとともに、ほっこりとハートが温まる。
やっぱ、イイな、拓郎。
4月に入っても、終息どころか、感染拡大が収まらない、にっくき「新型コロナ」。
拓郎氏のラジオ番組「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」は、ラジオ局ではなく、なんと自宅からの「テレワーク放送」となった。
コロナ禍を逆手に取った、この企画。
ある意味、拓郎らしい、ポジティヴシンキングである。
そうなのだ、元気をなくしちゃいけない。
精一杯、前を向いて、できることから始めよう。
「よしだたくろう」のデビュー曲である「イメージの詩」が発売されたのは、1970年6月1日。
そのB面に収録されていたのが、この「マークⅡ」である。
実際、その歌詞の内容は、クルマの「マークⅡ」とは、まったく関連がない。
【なぜこの曲のタイトルは「マークⅡ」なのか?】というのは、私の中学生時代からの積年の課題だった。
いわゆるひとつのWikipediaによると、「広島の喫茶店で女の子と待ち合わせをして、女の子が来て立とうと思ったら、逆の方向から格好良い男の子が来て、その女の子が男の子と腕組んで自分の目の前を通り過ぎてしまった。その時、目の前をマークⅡが通り過ぎた」から・・・らしい。
その真偽のほどは、謎ではありますが(^^;
歴史ある、マークⅡというクルマ。
しかしながら、その系譜を継ぐ「マークX」は、昨年12月に生産中止となってしまった。
あの、バブルの時代の「マークⅡ現象」をリアルで知っている、私。
まあ、この令和の時代。
そんな言葉を知っている人は、それこそ「片手にさえ余る」くらいしか、居ないのかもしれないですネ(^^;
1992年に、吉田拓郎氏が札幌市交通局のイメージキャラクターだったことは、知る人ぞ知るトリビアかもしれない。
さらに話は遡り、大学生時代の1986年。
私は「自転車~地下鉄~国鉄~タクシー」で、通学していた。
ある金曜日の朝。
地下鉄に乗っていると、薬師丸ひろ子似の同学年の女子が、偶然、私と同じ車両に乗ってきた。
それから国鉄に乗り換え、大学着までの、おおよそ1時間。
薬師丸ひろ子さんと、今にして思えばたわいないのだが、それなりに甘美なひとときを過ごしたことを、今もまだ鮮明に憶えている。
それから私は、金曜日に地下鉄に乗る時は、「その時間発の、その車両」を必ず選び、幾度となく「偶然」を装い、彼女とのトークを愉しんだものである。ああ、青春。
まあ、そのうち、下心を見透かされて、彼女はその車両に乗らなくなってしまったのだが・・・(泣)
とはいえ。それはそれで、私個人にとっては、青春の1ページであったことは、間違いない。
ちなみに、この動画の画像は、国道231号線だと思料される。
2:45あたりで、我々夫妻のアワ・フェイバリットショップである「佐藤水産サーモンファクトリー」が、右側に見えてくる。
この「地下鉄にのって」という楽曲は、1972年に拓郎氏が「猫」というグループに提供したものが、オリジナルである。
拓郎氏のテイクは、1991年発売の「デタント」というアルバムに収録された、いわゆるひとつの「セルフカヴァー」なのだ。
そして、色眼鏡なしで冷静に見ると実はかわいい、「篠原ともえ」ちゃんのカヴァーも、これまた佳し。
「地下鉄にのって」。
拓郎氏の「メロディーメーカーとしての素晴らしさ」をしみじみ感じる、佳曲である🎵
高校生の時。
古典の授業は、それはそれは退屈だった。
古典を受け持つY先生は、当時いくつだったのかはわからないが、どの角度からみても枯れ始めのオバさんで、高校生の私にとっては、絶対に恋愛対象には成り得ない印象の方であった。
古典の授業は、「ありをりはべりいまそかり」を「有森也実いまそかり」などと、茶化して覚えないとやっていられないくらい、眠たくなる苦痛の時間であった。
しかしながら、ある日。
そのY先生が、授業中に、私を覚醒させる発言をした。
「実は私、吉田拓郎が大好きなんです」と、誰も訊いていないのに、突然、語り始めたのだ。
「今度出た『FOREVER YOUNG』というアルバムは、とってもいいアルバムで、拓郎の魅力が詰まっています」・・・といったようなことを、古典の授業中に、せつせつと説いたのだ。
誰も、そんなコト訊いていないのに(笑)
当時の高校生にとっての流行は、チェッカーズとか菊池桃子さん、あるいは斉藤由貴さん辺りで、吉田拓郎氏を愛聴する者は、校内で私とN君くらいしか居なかったと思う。
Y先生とは、その数年後。
大学時代に、デパートの催事場で開催されていた拓郎のビデオコンサート会場で、一度だけ、偶然というか、必然というか、バッタリとお会いした。
それから30年以上の歳月が経過したが、Y先生は今もお元気なのだろうか。
そんなことを、ふと思ったバレンタインの夜である。