『監視カメラ社会:もうプライバシーは存在しない』

江下雅之、2004、『監視カメラ社会:もうプライバシーは存在しない』、講談社+α新書
エシュロンといった英語圏国家による世界監視システムやFBIによるカーニボーという盗聴システム、日本の通信傍受法の設立、あるいはまた、幹線道路におけるNシステムや速度監視システム、街角や建物内の防犯カメラ。我々を取り囲む監視の目は厳しくなりこそあれ、緩むことはない。先日の大阪や和歌山におけるエアガンによるシューティング事件の解明においても、おそらくは、こうした(もちろん、エシュロンやカーニボーではないであろうが)システムが貢献したであろうことは、想像に難くない。
本書の著者は、在仏経験から、安全と国家システムからするとこうした監視システムから免れることは困難であるという。それをふまえた上で、こうした監視する国家を監視することが肝要だというのである。監視システムによって得られた情報が恣意的に乱用されないかどうか、十分に監視するべきであるという。なかなか困難である。
安全と監視レベルのバランスがはたしてうまく保たれるのか、その保証はどこにもない。権力機構である国家は、国民の想いとは別に、明確な(国民からは明確には見えないにせよ)意図を持っているであろうし、情報は至って恣意的に使用されるであろうことはさけられないと思う。そもそも、911事件が典型的なものであったようである。あれほど情報を集め、その兆しをキャッチしていたが、防ぐことができなかったのである。意図的に見逃し、事件を起こさせて政治的に利用したとみることも可能であるが、むしろ、情報の集積は何の解決にもならず、むしろ、恣意的な(あるいは、無能な)情報の利用が、悲劇を生むのであることを我々だけではなく、為政者もまた心して自覚すべきなのである。情報は所詮、解釈する人間の問題である。情報は蓄積しただけでは、何の意味ももたらさない。だから、その分、とんでもなく恐ろしい。
わたしは、中年(さらには老年)ハッカー(クラッカーではない)への志を持つもの(たいそう心もとないが)であるが、本書の中で触れられるインターネットの可能性については、多少は希望を持っている。ブログを通じての発言は、そうした意味で、たいそう重要なメディアであろうと思う。ひょっとして、世の中を変える力になるか、少なくとも、そうおもいたい。
エシュロンといった英語圏国家による世界監視システムやFBIによるカーニボーという盗聴システム、日本の通信傍受法の設立、あるいはまた、幹線道路におけるNシステムや速度監視システム、街角や建物内の防犯カメラ。我々を取り囲む監視の目は厳しくなりこそあれ、緩むことはない。先日の大阪や和歌山におけるエアガンによるシューティング事件の解明においても、おそらくは、こうした(もちろん、エシュロンやカーニボーではないであろうが)システムが貢献したであろうことは、想像に難くない。
本書の著者は、在仏経験から、安全と国家システムからするとこうした監視システムから免れることは困難であるという。それをふまえた上で、こうした監視する国家を監視することが肝要だというのである。監視システムによって得られた情報が恣意的に乱用されないかどうか、十分に監視するべきであるという。なかなか困難である。
安全と監視レベルのバランスがはたしてうまく保たれるのか、その保証はどこにもない。権力機構である国家は、国民の想いとは別に、明確な(国民からは明確には見えないにせよ)意図を持っているであろうし、情報は至って恣意的に使用されるであろうことはさけられないと思う。そもそも、911事件が典型的なものであったようである。あれほど情報を集め、その兆しをキャッチしていたが、防ぐことができなかったのである。意図的に見逃し、事件を起こさせて政治的に利用したとみることも可能であるが、むしろ、情報の集積は何の解決にもならず、むしろ、恣意的な(あるいは、無能な)情報の利用が、悲劇を生むのであることを我々だけではなく、為政者もまた心して自覚すべきなのである。情報は所詮、解釈する人間の問題である。情報は蓄積しただけでは、何の意味ももたらさない。だから、その分、とんでもなく恐ろしい。
わたしは、中年(さらには老年)ハッカー(クラッカーではない)への志を持つもの(たいそう心もとないが)であるが、本書の中で触れられるインターネットの可能性については、多少は希望を持っている。ブログを通じての発言は、そうした意味で、たいそう重要なメディアであろうと思う。ひょっとして、世の中を変える力になるか、少なくとも、そうおもいたい。
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