South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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『犬の伊勢参り』(平凡社新書)

仁科邦男、2013、『犬の伊勢参り』、平凡社(平凡社新書)

本書は、久しぶりのヒットだった。

この2年ほど、家で不幸が続いたので、この2月に久しぶりに伊勢内宮にお参りしたが、思いがけず大勢の参宮者があって驚いた。今年は伊勢遷宮の年、さらに大勢の参宮者がでることだろうが、犬は連れてはいけない。犬はご法度だ。

本書は、江戸時代に参宮した犬がいるという書き出しで大変興味深く読んだ。もとより、古来日本では犬は穢とされていたそうで、穢のものが参宮出来ようもないはずではあるが、読み進めるうちに、本書は、犬と日本社会のあり方という本質に迫る奥深いものであることに気が付かされることになった。

柳田國男によると、かれの生まれ故郷でも犬は家で飼ってはいないものであったという。明治維新前後より、洋犬が入ってきてその名を「カメ」とよんだというが、それは「come on」が人々に「カメ」と聞こえたということによる。「カメ」は個人に所有されて居るものであったが、それに対して日本の犬は、一部の犬を除き、個人で所有するものではなく、村犬とも言うべきもので(もちろん、町でも同様)、村の境近くに見知らぬ人が来れば、吠えつき、あるいは、付き添って監視して、村の番をしていたものであった。犬もまた一部の狩猟犬以外は特定の飼い主に忠誠を尽くすものとは考えられてはおらず、村の子らの遊び仲間であり、村の誰もが餌を与え、それなりに親しく接していたのだそうだ。

わたしは、ミクロネシアやオーストラリアでフィールドしたことがあるのだが、それぞれの地で、犬との接し方の違いを経験したが、本書を読んで改めて蒙を啓かれた思いがする。日本もまた、西欧の所有についての観念が、様々の物件において異質であったこと、本書で言えば、犬の所有権はどこにあるかということにあるのだが、そもそもペットという観念自体が個人所有の観念であると今更ながらに気が付かされた。ペットは動物を愛玩するにとどまらず、所有権であるということである。当然のことながら、所有物である以上、所有者には様々な責任が発生するはずで、ペットに対する所有に付随して、しつけもまたともなうはずである。しかし、未だに、ペットを捨てる人々が出ること、あるいは、ペットに対するしつけが充分でないことが続くのは、日本の人々の心にある愛玩動物の「所有」について、少なくとも欧米流の所有権をともなう確たるイメージが未だに湧いていないためのことではないのか。

さて、江戸時代、犬の参宮があったという事例が数多く本書で紹介される。もちろん、犬に宗教心があったわけもなく、江戸の庶民の宗教心によるものだが、同時に、伊勢の御師というシステムが、全国を組織していて、参詣を名目とすれば庶民も旅をすることができたという、江戸のツーリズムが普及していたこと。また、江戸時代には全国をネットしていて参宮犬への喜捨や御札をふくめ、犬を無事にリレーしていく流通システムが存在したことを背景としている。先に述べたように犬と人間の関わり方も、もちろん、そのようで、犬の持つ帰巣本能が遠距離での参宮を可能にするのであろうが(本書では青森黒石と伊勢との往復2千キロ超の事例が紹介されている)、同時に江戸のツーリズムと流通がそれを可能にしたのである。

うーん、江戸は不思議だ。日本は謎だ。しかし、こうした不思議や謎がどんどん薄れてしまっていくことは、まこと残念なことといわねばならない。

犬の伊勢参り (平凡社新書)
仁科邦男
平凡社

2013-04-28 23:55:16 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


名古屋池下「浅野屋」(洋食)

今日の午後、15時過ぎに到着すれば多少は混雑緩和かと思ったが、長島アウトレットは、大いに混雑。客単価はどんなものか?!

20時頃帰宅、浅野屋へ。

カツオのカルパッチョ
ニース風サラダ
メンチボール
ソーストンカツ

2013-04-28 22:55:55 | 夕食・外食 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


4月27日(土)のつぶやき


2013-04-28 04:35:21 | tweets | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )