通夜を済ませた次の朝、朝九時に自宅を出棺しました。東京では立派な霊柩車にお棺を載せますが、この地域は霊柩車を使いません。そう言えば、私がこの地域に住んでいた頃、一度も見たことがありませんでした。東京に来てから霊柩車を見ました。私が勤めていた病院では、ただのワゴンのようなものから豪華なものまで霊柩車にいろいろなランクがありました。この地域のようにどのお棺も同じ車種を使うのであれば、周囲に気を使う必要がないのでいいかも知れません。ところで、以前行われていた野辺送りの風習がわずかに残っていました。地域の方々のいろいろなお手伝いは、東京暮らしが長かった私はとても助かりました。いつか何かの形でお返ししなければなりません。
故人の遺影を持つ私,そして母親が同乗、自宅前で
斎場は、田布施・平生合同斎苑です。この斎場は、父親が生前に建設に力を尽くしていたそうです。建設に反対する人や、土地を買い占めた人などを説得するのにとても苦労していたとの話を伝え聞いたことがあります。今でも、反対していた人とのいさかいが残っているとのことでしたが、ほとんどの方はこの斎場ができて良かったとのことのようです。東京では、斎場と焼き場が離れているようですが、ここは斎場も焼き場も同じ場所にあります。駐車場も広くとても使いやすく、使用料も町民には良心的です。
静かな音楽に囲まれた立派な祭壇
昔この地域では、野辺送りが一般的でした。葬儀はそれぞれの家で行い、故人は丸い樽に納められ、先頭に旗を立てて行列を組んで焼き場まで行きました。それぞれの地域に焼き場があり、それぞれの風習での葬儀でした。もっと昔は土葬だったそうです。このような古い形式の葬儀は、私が高校生時代に経験したのが最後でした。それは、高校の同級生が亡くなった時の野辺送りでした。その同級生が父親の手で丸い樽のなかに納められていく光景や同級生が泣いていた姿を今でも忘れられません。そして、その樽と一緒に山奥にある焼き場まで行きました。
読経している住職二人 葬儀にみえた親族や地域の方々
私が思うに、野辺送りは当時の地域や親戚の絆を確かめるとてもいい機会だったのではないかと思います。焼き場が一緒になった斎場は合理的でいいのですが、失ったものも少なくないのではないかと思います。現代社会は野辺送りをするような精神的なゆとりや絆が少しずつ無くなっているのではないかと感じます。とは言え、野辺送りに郷愁を感じている私自身が時代に付いて行けず老いてしまったのかも知れませんが。
お祈りをする妹夫婦 お祈りをする地域の方々
斎場にお寺の住職の方が二人みえて合唱でお経をとなえておられました。お寺は以前、幼稚園や保育園を経営していました。その保育園に、私は幼児の頃に通っていました。このため、当時何度かこのお寺に来た覚えがあります。檀家でもあり、古くから付き合いのあるお寺です。葬儀は粛々と進んで最後に、私が喪主として故人を回想しつつ挨拶をしました。
火葬中、親族縁者は昼食をとりつつ歓談
火葬が終わり骨拾いも無事終わると、いったん自宅に戻りました。戻ると少し休憩をとりました。そして、今度は遺影、戒名、お骨などを持ってお寺に向かいました。母親は足が悪いため自宅で留守番です。私が保育園に通って以来ですので、55年ぶりのお寺訪問です。本尊を前にして、本日最後の読経をしていただきました。お布施を渡した後、別室で住職さん達と歓談しつつ初七日や四十九日の日程を相談しました。初七日はいいとして、四十九日の頃に姪の婚約日があるため重ならないように日付を決めました。
斎場を離れる前に親族と お寺の本尊前で遺影と共に
ところで、私が子供の頃に親戚の葬儀に出たことがあります。その時は、叔父さん、叔母さん達ばかりすべて年長者でした。今回の葬儀で、私より年長は母親や従妹だけの数人でした。多くは私や妹の子たちの若い人ばかりでした。考えるに、故人への一番の供養は子供や孫たちが故人の命を立派に継いでいることではないかと思います。将来自分が亡くなる時どんな人が来てくれるのでしょう。そして、子や孫たちがいなかったらどんなさびしいことだろうと。息子にそんな話をしたり「わしが亡くなったら、喪主はお前がするんだぞ。」と言うと、息子は私の肩をもみながら笑っていました。
お寺を後にして、ようやく長い一日が終わりました。家内と息子は仕事があります。明日早朝に東京や大阪に戻らなくてはならないので早めに就寝しました。
葬儀が終わりほっとする親戚一同、お寺の前で