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「やまなし」モードへ

2010年10月05日 | 教育ノート
 担任が連続三日間の出張だということで、続けて補教に入ることにした。国語である。「どこか適当なところを…。『やまなし』でもいいよ」などと軽く声をかけておいたら、その通りになってしまって…。

 『やまなし』にはどうしても思い入れてしまう。これもいまだに一種の向山洋一シンドローム?だろうか。
 しかし、それにしてもずいぶんと月日が経っているではないか。冊子にしたものをみると、1997年秋である。なんと我が長女が6年生のとき、勤めていた学校の二学級で実施している。

 もちろん「敗北・反省」の記録なのだが、それなりに当時の問題意識に沿った授業展開になっているように思う。言語技術教育としていくつかの指導項目を掲げ、学習を組み込んでいくということである。絞りきれなかったところに甘さが残る。

 さて、今回はどうように…と少しうきうきしながら、教科書の指導書なんぞを覗いてみたら、えっ!と思う。そこでの配当はわずか5時間。単純に「導入だからいっぱい読ませて全体構成を考えたら3時間でしょ」という訳にはいかなくなった。

 そうだった、去年も6年担任に研究授業で相談されたときもその少なさは知っていたはずなのに…。自分がやる立場にならないと真剣ならないものだわねえ…。

 担任であれば指導時間配当を組み替えてもやりたいところだが、この場合は安易に提案できるものではない。つまり、5時間中前半の3時間で一つのまとまりをつけ、残りの構想をいくつか示して担任へバトンタッチすることがベターではないか。
 そう考えたとき、何をねらって、どのような活動を組むか。

 その前に参考文献はないものか。
 むろん二階の書棚に行けば、かなりあるだろう。しかしそれはおそらくどれも「詳細な読み取り」を志向しているはずである。たぶん、探して読み始めれば時間だけが経って結局ばたばたするだけかもしれない。

 自力のみでやるか…とふと近くの書棚の端を見ていたら、こんな本が。

 『「雨ニモマケズ」「やまなし」の授業』(野口芳宏、庭野三省 明治図書)

 野口先生の、あの発問ですね…と目次をめくっていたら、「『やまなし』を3時間で授業する」という項目があるではないですか!
 庭野先生の授業記録…うーん、なるほど。単元「宮沢賢治」という中の、それも終盤部での扱いである。確かにこういう手もある。
 しかし、ちょっと状況が違う。

 やはり、自前のプランづくりしかない。今の自分の問題意識を前面に出して、極めて限定的であっても学力形成と呼べるような授業が展開できればいい。

 アイデアは、いくつかあるだろう。