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今頃考える成熟社会の教育

2010年10月28日 | 読書
 『居場所なき時代を生きる子どもたち』(三沢直子 宮台真司 保坂展人 学陽書房) 

 90年代末のシンポジウムの記録をもとにした著である。
 今の時点で読んでみると、改めて「成熟社会」ということについて考えざるを得ない。

 辞書的な意味においては非常に喜ぶべき社会なのかもしれないが、現状は何故か閉塞感、不透明感に包まれた気分がある。しかし宮台氏の論文を読むと、その不透明ということが成熟を物語っていると語られる。

 様々な場面で不透明性が上昇した社会に生きている。これが成熟社会に生きているという意味である。 

 つまり、そのことについて意識的に学習してきたとしても、今の社会を生き抜く能力がない者、感性がない者にとっては、かなり生きづらい世の中である。育った時代を恨んでみてもしようがないが。

 この本では教育に関して「個人カリキュラム化」と「ホームベース制」という提案がなされる。子どもたちの自己決定能力を育てるシステムとして、それらは有効に働くかもしれないという思いは持つ。

 しかし現場サイド、小学校教員から見たとき、そうしたアイデアはもう少し細かくプランニングされた形が示されてほしい。
 選択する力や流動性に対応する力およびそれらの力の基になる基礎が、個人という形で学べるわけがなく、そのための全体的なカリキュラムと運用の年齢、時期、バランスといったことに言及しない限り、方向はわかっても単純には賛同できない。

 といっても、それは「社会学者」の仕事ではないのだろう。
 それを検討、具体化していくための専門家はいるはずで、何人か頭に思い浮かぶ人もいる。しかしまたその方々と現場の接点も限定的で脆弱な印象を持つ。
 
 生活科、総合的な学習、そして全国学力テスト、免許更新制と大きく打ち出してきたことを振り返るとき、それは成熟化への歩みと言っていいものなのか。いや、その動きも不透明な要素の一つに過ぎないと割り切るべきなのか、もうちょっと熟視しなければ分からない。