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プライド、その二重の意味

2010年10月16日 | 読書
 『プライド 処世術2』(藤原和博 新潮社)

 10年前の発刊。
 10年後の今、この本で著者が語っていること、特に教育現場へ踏み出したこと、そしてその場で自らの構想を多く実現したことには敬意を表する。さすがの突破力だなと思う。もちろん、もうこの時点で着々と策は練られていた。

 「10年先への“志”と“いま”との関係」という項があるが、それを忠実に実行して取り組んだのだろう。
 10年後の志について1割取り込んで今を生きるというのは具体的だが、やはりそこには強烈な願いや持続力、工夫が不可欠だと思う。
 かけ声ばかりで実際に進めない自分のもどかしさは、パッションの違いかなあなどと少し落ち込むが、それはそれとして発想を学ぶべきと切り替える。

 唐突に思いついた。

 延長線と補助線を引いてみる

 自分が今いる現在を、一定の「線」の結果として表すことは可能だけれど、それだけで止まるのではなくこの先どこへ行くのかを漠然と考えずに線として実際に伸ばしてみること。
 自分の考えや思いは様々な方向で線づけされるけど、それを交わらせたり、包括させたり、分割させたりするという思考を持って、線として書きこんでみること。

 自分の思考はどちらかといえば羅列的であったり、拡散的であったりする。それを融合、集中的にする方向に持っていくべきではないか…同年代の著者の言葉は、そんなふうに響いた。

 この本の中で一番感動的なのは、第Ⅰ章「義理の父への『弔辞』」だった。
 癌治療の権威であった義父の生死を見つめ、最後の決断の難しさを実に人間っぽく描いた。
 人間はそんなに潔くなれない。
 そこも含めて処世術なのだろう。その姿を潔く見せた。

 延長線や補助線のように思えるものも、時にはぐらつき、曲がったりする。それはなかなか自分では見えないものだ。

 何が「プライド」なのか、なぜプライドなのか。
 プライドの二重の意味にその答があるような気もする。

 最後に自分を立たせるもの、それは「誇り」なのか、「思い上がり」なのか。
 自分で意味づけるしかない。