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好かれても嫌われても

2010年10月20日 | 読書
 先月の末に、佐藤正寿先生のブログで紹介されていたので、興味がわいて購入した本である。

 『好かれる先生 嫌われる先生』(飯田稔 東洋館出版社)

 このタイトルを仮に三十年前の自分が見たら、「別に好かれたくて教師をしているんじゃない。嫌われてもやるべきことはやる、それが大事だろ!」…なんていうように突っ張った、尖った言い方しかできなかったのではないか、そんな気がする。
 今でもそういう思いが完全に立ち消えたかというと自信はない。しかし、歳月はそして学校を取り巻く環境の変化は、大きく視点を移動させた。

 前任校に赴任したときに、「つながる」という言葉をキーワードとして提示した。これは授業づくりという点を中核にしながら、仕事に向かう姿勢全般のポイントでもあった。
 「自分の仕事が有利に展開するように」という言い回しで、様々な人や機関、外部からの働きかけと折合いをつけていくことの重要性を繰り返し語ってきたつもりだ。

 それを一言で表せば、ここでいう「好かれる先生」ということなのかもしれない。

 自分が勤務してきた様々な学校現場にいた同僚を思い出しても、授業や学級経営などに腕をふるっていた教師は、多くの確率で「好かれていた」と思い出せる。子どもはもちろん保護者や職場の同僚等への対応は安定していた(むろん若干の例外もあったように思う)。

 「好かれる」とは相手に対して媚びへつらうことによりできる状態ではない。
 この本で言えば「好かれる・支持される・信頼される」ために、礼儀をわきまえ、やるべきことをきちんと実行し、かつ自分を客観的に評価できるということで実現される姿と言っていい。

 先年亡くなった叔父に、教員になり立ての頃言われたことがある。
 「学校の先生は子ども毎日と過ごしているので、幼稚な部分がある」
 似たようなことをある保護者から言われた時もある。
 その言辞をそのまま鵜呑みにしたわけではないが、しかし頭の片隅から離れないのも確かだ。
 その意味で、自己の客観的評価が一番難しいだろう。

 さて、この本は十年以上前に発刊されている。その間、少なくても私の周囲にある学校、教員の「常識度」はずいぶん高まったように思う。
 しかし同時に閉塞感や徒労感も高まっていて、それは現場に大きな陰を作っているようだ。無駄なこと、無理なことにはあまり手を出さない「賢い」人も多くなった。
 それは肯定していくべきことであろうけれど、何でも無駄、無理と決めてしまう割切りのよさを持ち、「嫌われない」ことを第一義に考えていて指導ができるものだろうか。

 失敗や誤解は誰にでもあるし、その回復はとても時間がかかるという現実も見据えながらも、なおかつ…とそこまで欲しくはないだろうか。

 この本に書かれていることは全て大事ではあるが、ある意味でそこを乗り越える、したたかさやある意味の狡猾さも持ち合わせていなければ…そんなふうに思ってしまう。