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茫然とする技術~反論篇

2010年10月31日 | 読書
 『茫然とする技術』(宮沢章夫 筑摩書房)の最後に、ⅠからⅤ章までの中に入れずにぽつんと一つ置かれたように項目立てされた文章、わずか4ページが面白い。考えさせられる。

 貧乏力 

 98年だから、様々な「○○力」がまだそんなには流行らない時期かもしれない。

 宮沢は、若い演劇員を例に出して簡単に定義づけた。

 「貧乏力」とはつまり、「気にならない力」のことではないだろうか。

 その当時に出版された「清貧の思想」とは違う。
 あえて名付ければ「白貧」、いや「空貧」といったイメージである。
 それ以降に「貧乏を力に変える」というような内容の本もあったが、それはいわばハングリーと称しギラギラしている。しかし、ここではそういうハードさは感じられない。

 しかし下記のような宮沢の論理でいくと、明らかに強い?ことが見えてくる。

 ただ単に「いま、金がない」だけのことだ。そして、「気にならない力」は、様々なことを無視し、見落とし、忘れるがゆえに、「力」となる。

 当時から流行り始めたのだったろうか、路上やコンビニ前で腰をおろす若者にもその力を当てはめている。
 時代の嘘を見抜き少し低い位置から町を見ている、と言えば何かしら考えがあるような気もするが、それはごく限られた少数の者だろう。

 「気にならない」というのは、結局「他人が気にならない」「人の目を気にしない」ということであって、それはある面で強さの証しだが、「人の気持ちを察せない」「他人の考えを寄せ付けない」ということに通ずる。

 貧乏とは関わりなしに、様々なことを見て、気にして、苦労する性質の自分としては、羨ましさを感じないわけではないが、「気にする」ことが礼儀であり、敬愛であり、関わりなのだと思う。
 ただあまりにも情報化、複雑化が進み、それらをある面で減少させていくことも必要だとは感じている。

 しかし、無視も見落としも意図的であることが大事だろう。
 いわば選択する力だ。
 意図的に無視、切り捨てていくものは何かを考えながら歩むことだ。そのために貧乏が下地であることは、けして不利とは言えないが、その「学習」の場さえ気にせずスルーし、結果貧乏を再生産していく率の方が高い気がする。
 従って、ギラギラしていなくても、貧乏のままに道を貫ける体力や感覚、融通は不可欠だ。それらは偶然性もあるのだが、やはりどこかで鍛えられなければいけない。

 なんだか、いつのまにか宮沢から宮台のようになってしまった。