『ユーモアのレッスン』(外山滋比古 中公新書)
こんな文章があった。
明治のはじめ、そして、この間の大戦のあと、外来文化のおびただしい流入があったため、よい意味での閉鎖性が破れ、〝野暮〟な社会になったのは否めません。
この本の内容は外山氏らしく外国のことが多くなっているが、イギリスの「アイランド・フォーム」という流れから当然我が国のことにも触れられる。そこで出てきた表現だが、ふと先日見た、NHKの夜の番組で爆笑問題が「落語」について扱ったことと重なった。
落語が扱う江戸の文化は、いい加減なことが多い。
悪事も死も、話にしてしまえばそれで良しとされることが圧倒的である。人間が抱える醜さ、弱さに同化し、それらを笑い飛ばすような…立川談志風に言うと「業の肯定」ということだろうか。
制度や論理にあくせくして縛られ、それはそれでと笑い飛ばすことを忘れてしまっている…そんなふうにこの国の社会、文化が形づくられてきたのは明らかだ。
自分が生きてきた時代を振り返ってみても、笑いで済まされていたことが「笑い事じゃない」ときつい顔で言及されている。数え上げればなんと多いことか。
「野暮じゃないか」と言って済ませたいことも少なくない。
そして、誰しも心の中でそんな思いを抱えていながら、口に出すことが憚られ、別の何かにはけ口を求めている気がする。この文章も現にそのものなんだから。
「ユーモア」の本を読みながら、何か深刻になってしまったのも余裕のなさの表れか。
でも、申告したかったのです。(苦)
こんな文章があった。
明治のはじめ、そして、この間の大戦のあと、外来文化のおびただしい流入があったため、よい意味での閉鎖性が破れ、〝野暮〟な社会になったのは否めません。
この本の内容は外山氏らしく外国のことが多くなっているが、イギリスの「アイランド・フォーム」という流れから当然我が国のことにも触れられる。そこで出てきた表現だが、ふと先日見た、NHKの夜の番組で爆笑問題が「落語」について扱ったことと重なった。
落語が扱う江戸の文化は、いい加減なことが多い。
悪事も死も、話にしてしまえばそれで良しとされることが圧倒的である。人間が抱える醜さ、弱さに同化し、それらを笑い飛ばすような…立川談志風に言うと「業の肯定」ということだろうか。
制度や論理にあくせくして縛られ、それはそれでと笑い飛ばすことを忘れてしまっている…そんなふうにこの国の社会、文化が形づくられてきたのは明らかだ。
自分が生きてきた時代を振り返ってみても、笑いで済まされていたことが「笑い事じゃない」ときつい顔で言及されている。数え上げればなんと多いことか。
「野暮じゃないか」と言って済ませたいことも少なくない。
そして、誰しも心の中でそんな思いを抱えていながら、口に出すことが憚られ、別の何かにはけ口を求めている気がする。この文章も現にそのものなんだから。
「ユーモア」の本を読みながら、何か深刻になってしまったのも余裕のなさの表れか。
でも、申告したかったのです。(苦)