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ユーモアを求める野暮

2010年10月12日 | 読書
 『ユーモアのレッスン』(外山滋比古 中公新書)
 
 こんな文章があった。

 明治のはじめ、そして、この間の大戦のあと、外来文化のおびただしい流入があったため、よい意味での閉鎖性が破れ、〝野暮〟な社会になったのは否めません。
  
 この本の内容は外山氏らしく外国のことが多くなっているが、イギリスの「アイランド・フォーム」という流れから当然我が国のことにも触れられる。そこで出てきた表現だが、ふと先日見た、NHKの夜の番組で爆笑問題が「落語」について扱ったことと重なった。

 落語が扱う江戸の文化は、いい加減なことが多い。
 悪事も死も、話にしてしまえばそれで良しとされることが圧倒的である。人間が抱える醜さ、弱さに同化し、それらを笑い飛ばすような…立川談志風に言うと「業の肯定」ということだろうか。

 制度や論理にあくせくして縛られ、それはそれでと笑い飛ばすことを忘れてしまっている…そんなふうにこの国の社会、文化が形づくられてきたのは明らかだ。

 自分が生きてきた時代を振り返ってみても、笑いで済まされていたことが「笑い事じゃない」ときつい顔で言及されている。数え上げればなんと多いことか。
 「野暮じゃないか」と言って済ませたいことも少なくない。

 そして、誰しも心の中でそんな思いを抱えていながら、口に出すことが憚られ、別の何かにはけ口を求めている気がする。この文章も現にそのものなんだから。

 「ユーモア」の本を読みながら、何か深刻になってしまったのも余裕のなさの表れか。

 でも、申告したかったのです。(苦)