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茫然とする技術~実践篇

2010年10月30日 | 雑記帳
 訳もなく『茫然とする技術』(宮沢章夫 筑摩書房)の実践化を図る。

 技術を技能に換えるためには、何より経験である。
 その姿勢は、他人様より結構強いのではないかと思っている。

 校内をまわっていた時に、2階の掲示物が気になった。
 「昔の道具・未来の道具」といったテーマで、家にある古い物を調べて図示、説明を加えたシートが貼られている
 時代区分がこうなっていた。

 大昔・小昔・現在・未来
 
 …えっ「小昔」ってどういうことだ。

 時の流れ順であることは言うべくもないが、この表記はそそられるものがある。

 「小昔」…「小さい昔」か。
 昔は小さかったんだ。
 自分の意識の中でもちろん一番大きいのは現在だろう。ほとんど全てと言っていい。
 じゃあ「小昔」はどのくらい小さいのか。自分も小さかったからその中に入っていたんだねえ。でも他の家族はどうだろう。昔は家族が多かったから入りきれないだろう…

 じゃあ、「大昔」ってどうよ。
 「おおむかし」けして「オウム、菓子」ではない。
 「大昔…大きな昔」こう呟いてみると、ああ何か神聖な感じさえする。神が降りてきそうな、心悪き者など近寄れそうもない。
 そうだよ、大昔の位置はそんなところだ。

 「小昔」は「コムカシ」…何か虫の名前のようだ。
 結局、とるに足らない世界を表しているというわけか。

 それはそうと、区分に合わせると「小未来」「大未来」もなければ駄目だ。

 「コミライ」…アフリカあたりの新興国の名前か。「コミライ共和国」。
 
 「オオミライ」うーん、これには例えば「oh!mirai」のような明るい響きがある。何かラテン系の歌でも歌っていそうだ。

 そこでふと気づいてしまうのは、現在を生きる私たちが本当に知り得るのは「小昔」。
 そして知り得るだろうと予測できるのは「小未来」だということ。

 そんな小さな範囲で生きているという実感を忘れず、今日も茫然とする準備をしている私。