『茫然とする技術』(宮沢章夫 筑摩書房)
古本の店Bで105円で購入した。
あまり日焼けもしていず、まあまあの状態。こうした単行本でも文庫でもそれは気にするタチだが、宮沢章夫の本だったら即買だったので、あまり中味もみなかった。
複数の雑誌連載エッセイをまとめたもので、実に楽しい。よどみなく読める。自分に共通する感覚だ。
ある言葉をめぐって、拡散的にかつ創造的に、そして妄想的に綴っていく。
例えば、冒頭16pのこの文章だ。
うっかり使ってしまいがちな、「ハロー」の恐怖だ。なにしろ「ハ」と「ロ」である。それで「-」と、伸ばすのだ。この単純な音の構造によって、言葉が口からぽろっとこぼれる。
ぽろっとこぼれる。言葉にとってそれほど恐ろしいものはない。
「月末」という章がある。
「週末」や「年末」との比較から、「月末」の持つ「終末」的イメージを自由奔放に語っているが、そのとき、この本の最初の買い手?が引いたであろうサイドライン発見、73pである。
ああ、あったか。まあ、仕方ないだろうと一瞬そんなふうに思う。
しかし、サイドラインが引かれた文章をよく見てみる。
いきなり十月が来たらどうだ。なにか損した気分になるしかないじゃないか。
なんだ、これは。
どうしてこんな箇所に引く。
こんなところが、なぜそんなに重要なのだ。
ちなみに、その前の文章はこうなっているのだ。
八月の後半に、こんなふうに口にする者がいたとしたら、どうだ。
「あれ、八月が終わると、次は九月?」
あたりまえである。
何か心に響くものがあったというのか。
しかも、その線はみだれている。最初、少し内側にきれて、そこから持ち直したように右に大きく膨らんで、行き過ぎたかと思った瞬間に、またその文章にもどっていくというような。
気持ちの乱れか、酔っているのか。
そうか、これは八月の終わりに何かあったな。
しかも、その線の色は青、万年筆らしい太さだ。
今どき万年筆か、青いインクか。
文学青年だ。演劇好きの文学青年に違いない。彼には消してしまいたい九月があったのだろうか。いや、九月ではなく、九月にそういう感情を抱く自分を消し去りたいと思っている。そうに違いない。
ああ、茫然としてしまった。
もしかしたら、ひょっとしたら、この揺れる青いサイドラインは、著者の作戦ではないかと秘かに思う。
恐るべし、宮沢章夫。
古本の店Bで105円で購入した。
あまり日焼けもしていず、まあまあの状態。こうした単行本でも文庫でもそれは気にするタチだが、宮沢章夫の本だったら即買だったので、あまり中味もみなかった。
複数の雑誌連載エッセイをまとめたもので、実に楽しい。よどみなく読める。自分に共通する感覚だ。
ある言葉をめぐって、拡散的にかつ創造的に、そして妄想的に綴っていく。
例えば、冒頭16pのこの文章だ。
うっかり使ってしまいがちな、「ハロー」の恐怖だ。なにしろ「ハ」と「ロ」である。それで「-」と、伸ばすのだ。この単純な音の構造によって、言葉が口からぽろっとこぼれる。
ぽろっとこぼれる。言葉にとってそれほど恐ろしいものはない。
「月末」という章がある。
「週末」や「年末」との比較から、「月末」の持つ「終末」的イメージを自由奔放に語っているが、そのとき、この本の最初の買い手?が引いたであろうサイドライン発見、73pである。
ああ、あったか。まあ、仕方ないだろうと一瞬そんなふうに思う。
しかし、サイドラインが引かれた文章をよく見てみる。
いきなり十月が来たらどうだ。なにか損した気分になるしかないじゃないか。
なんだ、これは。
どうしてこんな箇所に引く。
こんなところが、なぜそんなに重要なのだ。
ちなみに、その前の文章はこうなっているのだ。
八月の後半に、こんなふうに口にする者がいたとしたら、どうだ。
「あれ、八月が終わると、次は九月?」
あたりまえである。
何か心に響くものがあったというのか。
しかも、その線はみだれている。最初、少し内側にきれて、そこから持ち直したように右に大きく膨らんで、行き過ぎたかと思った瞬間に、またその文章にもどっていくというような。
気持ちの乱れか、酔っているのか。
そうか、これは八月の終わりに何かあったな。
しかも、その線の色は青、万年筆らしい太さだ。
今どき万年筆か、青いインクか。
文学青年だ。演劇好きの文学青年に違いない。彼には消してしまいたい九月があったのだろうか。いや、九月ではなく、九月にそういう感情を抱く自分を消し去りたいと思っている。そうに違いない。
ああ、茫然としてしまった。
もしかしたら、ひょっとしたら、この揺れる青いサイドラインは、著者の作戦ではないかと秘かに思う。
恐るべし、宮沢章夫。