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茫然とする技術~読書篇

2010年10月29日 | 読書
 『茫然とする技術』(宮沢章夫 筑摩書房)

 古本の店Bで105円で購入した。
 あまり日焼けもしていず、まあまあの状態。こうした単行本でも文庫でもそれは気にするタチだが、宮沢章夫の本だったら即買だったので、あまり中味もみなかった。

 複数の雑誌連載エッセイをまとめたもので、実に楽しい。よどみなく読める。自分に共通する感覚だ。
 ある言葉をめぐって、拡散的にかつ創造的に、そして妄想的に綴っていく。
 例えば、冒頭16pのこの文章だ。

 うっかり使ってしまいがちな、「ハロー」の恐怖だ。なにしろ「ハ」と「ロ」である。それで「-」と、伸ばすのだ。この単純な音の構造によって、言葉が口からぽろっとこぼれる。
 ぽろっとこぼれる。言葉にとってそれほど恐ろしいものはない。
 

 「月末」という章がある。
 「週末」や「年末」との比較から、「月末」の持つ「終末」的イメージを自由奔放に語っているが、そのとき、この本の最初の買い手?が引いたであろうサイドライン発見、73pである。
 ああ、あったか。まあ、仕方ないだろうと一瞬そんなふうに思う。

 しかし、サイドラインが引かれた文章をよく見てみる。

 いきなり十月が来たらどうだ。なにか損した気分になるしかないじゃないか。

 なんだ、これは。
 どうしてこんな箇所に引く。
 こんなところが、なぜそんなに重要なのだ。
 ちなみに、その前の文章はこうなっているのだ。

 八月の後半に、こんなふうに口にする者がいたとしたら、どうだ。
 「あれ、八月が終わると、次は九月?」
 あたりまえである。
 

 何か心に響くものがあったというのか。
 しかも、その線はみだれている。最初、少し内側にきれて、そこから持ち直したように右に大きく膨らんで、行き過ぎたかと思った瞬間に、またその文章にもどっていくというような。
 気持ちの乱れか、酔っているのか。

 そうか、これは八月の終わりに何かあったな。
 しかも、その線の色は青、万年筆らしい太さだ。
 今どき万年筆か、青いインクか。
 文学青年だ。演劇好きの文学青年に違いない。彼には消してしまいたい九月があったのだろうか。いや、九月ではなく、九月にそういう感情を抱く自分を消し去りたいと思っている。そうに違いない。

 ああ、茫然としてしまった。
 もしかしたら、ひょっとしたら、この揺れる青いサイドラインは、著者の作戦ではないかと秘かに思う。

 恐るべし、宮沢章夫。