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学習用語の学習の問題

2013年08月02日 | 読書
 先月末の「学習用語」をテーマとした研究大会に出る前に、ほんのちょっぴり資料に目を通したが、その中で印象深いものを書きとめておきたい。

 2005年に出版された『言語技術教育14』~特集 この言語技術を「この授業」で身につける~ が一番面白かった。
 この本は、「鍛える国語」の柳谷直明氏が著書を出した翌年であり、第二部に「学習用語」が特集として組まれていた。

 なかでも納得できたのは、宇佐美寛氏の言葉だった。
 「万事金の世の中だ ~警句こそが学習用語なのだ~」と題して書かれた文章である。当時もこれを読んで納得したなあということがすぐ思い出された。

 単語に含まれる概念だけを与えるだけでは学習は促されない。
 その単語を含みこんだ、目的を示す強い警句を与えるべきである。

 単語としての学習用語の学習が、学習者自身の目的の意識を欠いて先走りし独走するのを危惧する



 学習用語を単語の形で表すか、そうでなくともよいかは議論が必要だろう。その点に大きく関わりを持つが、結論として学習者に言語技術を定着させることだとすれば、上の言葉の正しさは揺るがないと思う。


 第二部から離れるが、第三部の「読み」に書かれた横田経一郎氏の『「宣言的知識」「手続き的知識」をスキーマ化することで読む能力が向上する』と題された論文も興味深かった。

 技能を上達させるための知識を「宣言的知識」と「手続き的知識」の二種類とし、それらの体系化、スキーマ化を図ろうというものである。

 具体的に説明文指導の例として、宣言的知識では段落、接続詞等のいわゆる用語を挙げている。また手続き的知識として、問題と答えを探す、まとまりの関係を考えるなど、活動とされていることを挙げている。

 いずれ、学習用語の指導を強く推進していく考えを持っていても、単なる単語指導と同じであるという認識を持っている者はいないだろう。
 問題は授業場面で、「用語」がどのように出され、どのように説明され、どのように使われるかである。さらに言えば、一定期間の指導(担任をイメージしている)で、どう繰り返され、どう定着させているか、である。

 国語科の学習用語について、昨今の出版物から推進傾向は見られるようだ。詳しい内容についてはごく一部しか理解していないので、もう一歩勉強してみたい。