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大人のいない国の大人に学ぶ

2013年08月12日 | 読書
 『大人のいない国』(鷲田清一・内田樹  文春文庫)

 知の巨人と称してもいい二人の対談や個々の論考に、何度もページの端を折ることになった。

 改めてその箇所を読み返してみる。
 心に響く部分を書き留めて、自分の足取りの向きを見つめ直してみたい。


 1 ちょうど子育てや教育において、子どもをどのように育てるかではなく、子どもが勝手に育つ環境をどのように作ったらいいかと腐心することのほうが大事
 (第5章  鷲田)


 どこかに何かに限定された目的を持つのではなく、学びの本質において学校という場もかくありたいと思う一言だ。
 しかし、現実はそれとは違う社会が強固になっていく日常を抱えていることも事実だろう。

 2 家庭でも学校でもメディアでもネット上でも、子どもたちはどこでも同じ明快で非情なメッセージを浴びている(「社会的能力とは金の稼ぐ能力のことである」、「能力のある人間は上位にポスティングされ、ない人間は下位に釘付けされるのがフェアな社会だ」などなど)
 (第6章 内田)


 それに自分は加担していないなどと誰が言えよう。
 知らず知らずのうちに作り上げてきたメンタリティは、次のような一言にはっとさせられる。

 3 ケアがもっとも一方通行的に見える「二十四時間要介護」の場面でさえ、ケアはほんとうは双方向的である。
 (第3章 鷲田)


 それは建前や教条主義ではなく、「誰もが『じぶんを担いきれない』状況にあるのだ」という認識をもっているかどうかによって決定する。
 そういう大きな相互依存のなかを生き抜くという自覚こそ、「大人」の必要条件になってくる。

 それをなかなか認められない者は、どうしても感情に走る。しかも狭く、偏執であり、周囲の情報によって操作されたり、誘導されたりしている現実がある。
 この著には,政治や言論の自由と絡ませて論述されている。そしてこの状況は私たちの仕事の現場にも当てはまる。

 具体的にどうこう書ける事柄ではないが、何が正しく何が誤りかは、見る側の視点によって、そしてまた「成熟度」によって異なることは肝に銘じたい。
 ただ、それは斜に構えたりするということではなく、次の言葉を深く刻み、正対することだ。

 4 正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。この付託によってのみ、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができる。
 (第4章 内田)



 今年の春に行われた対談が終章に収められていて、これも実に面白い。
 「身体感覚と言葉」と題された内容は、鈍った日常の動きや感覚に対する警告である。