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生の充実を求める教育のために

2013年08月29日 | 雑記帳
 奈良正裕氏(上智大学教授)が、東書発行『教室の窓』の巻頭言で、「もう、そんなに遠くに行かなくてもいいから」と題した文章を書いている。

 クラーク博士のあの著名な「少年よ大志を抱け」という言葉が子どもの頃から好きになれなかったことを切り口に、独白めいた論調で、次のように主張している。

 もう遠くばかりを眺めさせる、ずっと先の時間にばかり意味を求める教育はやめにして、足下をしっかりと見据え、今このときの生の充実にもっぱら心を砕く教育を始めようじゃないか。


 氏の講演を聴いたのは、もう十年以上前になる。学芸大附属竹早の公開研に行ったときだった。「生活科」「総合」に関して指折りの研究者・論客であるし、当時の「カミキュラムからカリキュラムへ」というフレーズの新鮮さは今でも思い出すことができる。

 今回の文章もその延長上にあることは間違いなく、大人が敷いたレールのスムーズな走行や高く築いたタワーのようなものへの到達を目指させる教育のあり方に対しての批判といってもいい。

 この論への賛否を問えば、いろいろなレベルや見方で違いは際立つだろうなと予想する。
 そこには、おそらくこの国の現状をどうとらえ、どんな社会を展望しているのかが色濃く表れる。
 教育観は、学力観と表裏一体のものだ。そして価値観や幸福観とも強く重なり合う。


 いったい学ぶ価値を決めるのは誰か。
 それは紛れもなく学習者自身だが、価値を認識できるできない、言語化できるできない、発達段階によって曖昧模糊としているのは当然だろう。小学生なら多くはそうだ。

 そうなると最後は学んでいる実感の有無、それを教師が感じ取ることこそが目安となるか。学びの成立をどのレベルでとらえられるか。
 もちろん活動的な姿といったことをイメージしているわけではない。
 漠然としているが、教室の持つ空気が支配している部分は大きい。

 ともあれ「生の充実」は、個々の教師が望んでいる姿であり、目指していることには違いない。
 「生の充実」は、どの時間、距離に意味を求める教育であるかに規定されると同時に、結局は向き合う人間同士の響きのなかに感じ取れる気がする。

 氏は、上の文章にこう続けている。

 すると、きっと子どもたちだってすっかり元気になり、どこまでも自分らしくなっていく。

 この「子どもたちだって」という表現には、「元気」になってほしい存在が他にいることを間違いなく示している。
 そしてその存在の「元気」が減っていることへの対応は、政策レベルでもっともっと優先的に考えられるべきだ。