すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

すみませんと言ってスミマセン

2013年08月14日 | 読書
 先日読んだ,鷲田・内田両氏の対談部分に,こんな会話がある。

 鷲田  だから詫びるときに,「すまん」というのも,そういうことなんですかね。済まない。済んでいない。
 内田  確かにそうですね。だから,詫びや陳謝が成就した場合は,「済んだ」わけです。


 ここを読んで思い出したのが,愛読している「とかなんとか言語学」(by橋秀実)。
 橋は柳田国男の説を紹介しながら,次のような解釈をする。

 実は「済みません」ではなくて,「澄みません」。物事が済まないということではなくて,自分の気持ちが澄まない。いうなれば「私は濁っております」という気持ちの表明なのである。

 なんという発想の転換。
 「すみません」と頭を下げながら,自分の気持ちの濁りを相手に訴えているのか。それがその通りに伝わったら,当然,言われた方も気持ちは濁るわけで,これじゃあ,ほんとうに物事はスミマセン。

 かように,謝罪に使う言葉は結構面白い。

 例えば「あやまる」。「謝る」ということだが,古語大辞典によると「誤る」からの転義らしい。「誤りについての自覚」がもとになっているそうだ。
 つまり「私はあやまりましたので,あやまります」ということか。それにしたって「あやまります」という言い方を「間違えます」ととられれば,これはもうボケである。「あやまれ!」も「間違え!」ということになって,これもコントのようである。

 「申し訳ありません」…これは「申し訳」がないということ。弁解できませんということは,いったい謝罪の姿なのだろうか。
 「お詫びいたします」…もともとは「侘び」からきているという。「侘び寂び」である。自分の侘しい気持ちを表明してどうする,という気もする。

 そう考えてくると,いずれも自分の状態をさらけ出して,許しを請うということなのかもしれない。
 結局,謝罪とは,相手がこちらのダメージを確認してそれで納得していくような傾向があると思う。
 そうすると,ありきたりの言葉そのものよりも,疲れ切った表情,泣き腫らした顔,崩れんばかりの低頭,そんなボディアクションの方がより効果的か。
 そんな演技のようなとらえ方でどうするの,と思うが,人間の感情的な部分と対峙するためには,一つ心得ておくことも大事だろう。

 何度も手を合わせる機会のある,このお盆の時期。
 ご先祖様にも時々心の中で「すみません」と言ったりする。
 しかし,それも結局「澄みません」であって,こんな繰り言をしている自分にまさにぴったりだなと侘しく笑ってしまう。
 本当にどうもスミマセン。