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学力と幸せとメタ認知と

2013年08月04日 | 雑記帳
 地区の所属研究会組織で主催している夏恒例の研修講座を終えた。今回の講師は照井孝司先生と堀裕嗣先生。一日たっぷりと模擬授業,講話,トークなどでお二人の話を聴くことができた。運営上の反省は多いが,十分に刺激的な時間になったと思う。参加者各々の視点で何かを学び取っていただいたとすれば嬉しい。


 個人的に印象深い講師発言は,堀先生の言われた「学力が幸せを保障しなくなってきた」という一言。もちろんずいぶんと流布している言辞だが,改めて考えざるを得なかった。かつて心に強く印象づけられた「学力とは,幸せをつくる力」という大先輩の声をまた思い出すこととなった。このページに挙げていた。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP058.html


 前者の「学力」はいわゆる「試験学力」と置き換えてもいいだろう。そして後者はそれとは異なる。あるべき学力を問う形といってよい。そして教師という立場であれば,子どもたちが幸せを形作っていくための力としての「学力」に正対したい。今,「学力日本一」が「幸せ日本一」になるとは誰も思っていない。


 また「学力」観は,人生観や価値観と大きく関わっていることを今さらながらに思う。ただ自分はかくあるべきという強い信念は,教育を担う立場としては諸刃の剣と言えるかもしれない。学習者に伝わっていくのはエネルギーではあるが,その感化は常に不易なる価値に結びつくわけではないという危険性を孕む。


 結局のところ,教師にとって自分の学び方が学力観を左右するのではないか。一つのことを懸命に追いかける,幅広く吸収する,また「答」のあり方をどこに位置づけるか,どんな評価を得たいのか…。ここは研修会参加者の発言をみても,濃淡がでたように思う。それこそ「メタ認知」してみることが貴重になる。


 メタ認知は照井先生のお話のキーワードであった。堀先生が著書で何度も強調されていることでもある。授業や研究を進めるうえで有効なことは間違いない。また仕事,日常生活においても自らの足どりの支えになるだろう。しかし,メタ認知が幸せを保障するわけでもないことも,メタ認知するべき一つなんだと思う。