もう一冊持ち込んだ文庫本は、これだった。
『浅草のおんな』(伊集院静 文春文庫)
「志万田」という小料理屋を切り盛りする女将、志万が主人公である。
志万をめぐる人生模様が浅草を舞台に綴られている。短編連作のような形ではあるが、きちんと筋はつながっている。
この感想はしごく簡単。
「志万田」の常連になりたいなあ。
ストーリーに絡む数々の常連さんがいて、その姿がなかなか際立っている。年齢や仕事、性格まで多種多様であるが、志万に惹かれ足しげく通っている客の一人としてその場にいられたら仕合わせだろうなと単純に思う。
それは田舎人が憧れる浅草という舞台への気持ちが下地にあり、その空気から滲み出る人情や生き様が格好良く映るからだ。
地方出身であり悲しい過去を抱えた志万が、名実ともに「浅草のおんな」になるまでの足跡をたどる物語。紋切型に括ればそうなる。
その流れに苦難や禍、そして出逢いや僥倖を織り交ぜて、様々な人物に語らせる台詞は、人生の流儀を様々な切り口で見せてくれるような感覚、まさに伊集院ワールドである。
常連の一人カッチャンが、連れてきた義弟に対して花火の行方を講釈する。
「あの花火はね,ドーンと空に挙がるでしょう。そうしてボクの,ほらっ,ここよ。こころ、こころの中に入っていくんです。」
志万の引いたおみくじ札を見た留次は,こうささやいて志万に喜びの涙を流させる。
「おう,小吉か。いい札を引いたな。それっくらいが一番いいんだぜ。」
祭りの神輿担ぎの依頼を渋る志万に,常連の親方が声をかける。
「自分の器量が神輿を担ぐんじゃなくて神輿がそいつの器量を望んでくれるのさ。」
こんな言葉が沁み込む世界が今時あるだろうか。あるかもしれない。あってほしい。あるに違いない…。
これは「歴史」タイプの幸せのスピードと言えるのではないかと思いついた。
『浅草のおんな』(伊集院静 文春文庫)
「志万田」という小料理屋を切り盛りする女将、志万が主人公である。
志万をめぐる人生模様が浅草を舞台に綴られている。短編連作のような形ではあるが、きちんと筋はつながっている。
この感想はしごく簡単。
「志万田」の常連になりたいなあ。
ストーリーに絡む数々の常連さんがいて、その姿がなかなか際立っている。年齢や仕事、性格まで多種多様であるが、志万に惹かれ足しげく通っている客の一人としてその場にいられたら仕合わせだろうなと単純に思う。
それは田舎人が憧れる浅草という舞台への気持ちが下地にあり、その空気から滲み出る人情や生き様が格好良く映るからだ。
地方出身であり悲しい過去を抱えた志万が、名実ともに「浅草のおんな」になるまでの足跡をたどる物語。紋切型に括ればそうなる。
その流れに苦難や禍、そして出逢いや僥倖を織り交ぜて、様々な人物に語らせる台詞は、人生の流儀を様々な切り口で見せてくれるような感覚、まさに伊集院ワールドである。
常連の一人カッチャンが、連れてきた義弟に対して花火の行方を講釈する。
「あの花火はね,ドーンと空に挙がるでしょう。そうしてボクの,ほらっ,ここよ。こころ、こころの中に入っていくんです。」
志万の引いたおみくじ札を見た留次は,こうささやいて志万に喜びの涙を流させる。
「おう,小吉か。いい札を引いたな。それっくらいが一番いいんだぜ。」
祭りの神輿担ぎの依頼を渋る志万に,常連の親方が声をかける。
「自分の器量が神輿を担ぐんじゃなくて神輿がそいつの器量を望んでくれるのさ。」
こんな言葉が沁み込む世界が今時あるだろうか。あるかもしれない。あってほしい。あるに違いない…。
これは「歴史」タイプの幸せのスピードと言えるのではないかと思いついた。