すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

いつも「隗より始めよ」

2014年02月16日 | 読書
 「2014読了」22冊目 ★★★

 『邪悪なものの鎮め方』(内田樹 文春文庫)


 学校の朝の読書を取り上げて書いた「『読字』の時間の必要」という章が興味深かった。

 私も寝床,トイレ,風呂場等々どこへでも本や雑誌を持ち込む中程度の活字中毒を自覚しているが、著者は電車内で中吊り広告を熟視する自分をこう評している。


 これは誰が見ても「読書」ではない。私はおそらく「字を読む」ことそれ自体をはげしく欲望しているのである。


 以前から著者が書いているように,文字を図像として脳に入力しておくことが、「いつか幸福な読書を経験する」ためには不可欠なのだろう。

 読字自体が幸福な経験を呼び込むとすれば,こんなに嬉しいことはないが,そんなに単純ではないとも思う。

 読み取れる読み取れないを別にしても,その文字に浸ったり,寄り添ったりしている自分を意識して言語化する,つまりそれは何かしらの表現行為となるわけだが,その点が肝心になってくるのではないか。

 行為に結びつく本や文章に出会えるのは幸せなことだ。
 私にとって,内田教授の文章はそういう感覚を持たせてくれる一つであることは間違いない。


 さて,表題にある「邪悪なもの」といったとき,それは自己の内部にある感覚といった方が近いなあと,正直思う。

 もちろん,他者の言動にそれを感ずるときもあるにはあるが,他者を自分の変容態としてみるウチダ理論を学べば,全ては内なる感覚へ集結させられる。

 個々レベルではなく,集団や社会状況,そしてそれ以上の遠大な設定においても,邪悪なるものは存在するのだろう。
 その存在はきっと身の周りのどこかに姿を見せている。それを意識できるかどうか。
 「隗より始めよ」の教えは,そこに通じている。(ここで,どうして電力料金がこんなに高いのだと独り言を言ってみる)


 さて,内田教授は,その邪悪なものを鎮め生き延びるための答えを「はじめに」でそうそう提示してみせる。


 「ディセンシ―」(礼儀正しさ)と「身体感度の高さ」と「オープンマインド」


 どうだろう、自己採点は?

 三つとも及第点に達していない気がする。

 特に冬場は「身体感度」が…と言って腰をさすっているだけでは始まらない。