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クール・ジャパンは「世間」から

2015年07月16日 | 読書
 【2015読了】64冊目 ★★
 『クール・ジャパン!?』(鴻上 尚史  講談社現代新書)


 そもそも政府の何かキャンペーン的な文言だと思っていたから、そんなに興味があったわけではない。ただ「クール」が「涼しい、冷たい」という意味で使っているわけではないんだなとぼやっと頭にはあった。しかし今、辞書で調べても「冷静で感情におぼれないさま」と出てくるだけ。この場合は「かっこいい、優れている、素敵だ」という形容なのである。


 この新書では「クール・ジャパン」と(主に外国人から)評価されている「品物」や「商売」や「生活様式」などが、これでもかというほど出てくる。よりたくさん実例を紹介して、読者に考えてもらおうという著者の意図があるようだ。その中身はざっくりいうと、今までこの国が古くから培ってきた部分と、ある特定の文化、習慣等の突出に分かれると思う。


 知識として「クール・ジャパン」の総体はほぼわかったような気がするが、雑談以外には役に立ちそうもない。ただ部分的には少ないが著者が背景を語る部分がとても気になったし、考えさせられる。一つは「世間と社会」という箇所。著者なりの定義づけとして、次の一文がある。「『世間』とは、あなたと人間関係や利害関係のある人たちのことです」。なるほど。


 そして「対抗する概念が『社会』です」と書く。私たち日本人がいかに「世間」に縛られていて、反面「社会」を蔑にしているかについても自論を展開している。たしかに自分自身をみても「世間」に対しては慎重かつ友好的な行動をとっている反面「社会」に対しては薄っぺらだ。国民性などと言わずに、もっと「社会話」をしようという提言は納得できる。


 しかし簡単ではない。そもそも日本人(東洋人)は「良き『受信機』になれと教育」されてきたと、ニスベットという心理学者の論が紹介されている。それは「包括的思考」つまり「場」全体に注意を払い関係を重視する考え方に通ずる。目の前の個と素早く関係づくりをする習慣が根づくだろうか。クール・ジャパンは「世間」から育まれる…と言えば暴論か。