すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

畑の野菜と地雷と

2015年07月04日 | 雑記帳
 久しぶりに買ってみた雑誌『ソトコト』。ちょっと興味深い特集だった。
 その内容については、ちょっと心の中で温めておくこととして、「こといづ」と題された連載なのだろうか、1ページのエッセイに心惹かれた。
 高木正勝という方の文章らしい。

 相手に何かを求めるなら、先に自分の心と躰でその希望を実現してしまえば、自分にとっての相手はそのようになってくれる。

 30代半ばでこんなふうに言えるとは…いや、だからこそそういう感覚を持てるのかもしれない…要はどんな生き方をしてきたかなんだよなあ、と果てしなく羨ましく思える。

 『ソトコト』らしく野菜づくりのことにも触れていて、面白い
 友人から「野菜を育ててるなら水に触れてその水を畑に撒けばいい」と教えられた著者は、こんなふうに理由づけしている。

 僕の躰で起こっているプラスやマイナス、過剰や足りてないの情報を水が記憶してくれて、それを野菜が読み取って調整してくれるらしい。

 ほおおうっ。そんなことがあるのかと半信半疑ではあるが、おそらく科学的に証明はされていないと思うが、そんな心持で生き物に接することができれば、安らかだろうなとは想像できる。

 それは食べる物を美味しく感じさせるし、自分自身も美味しく育つという比喩は、かなり響くなあと思う。


 ところで、巻末に田中康夫、浅田彰という二人の論客の「憂国呆談」という対談があり、そこで田中がこんなことを語った。

 権力という地雷を巧みに避けながら、人々に届く言葉を発信つづけてこそメディアであり、表現者なんだから

 昨今の施政者側のマスコミへの関与などを言っているのだと思う。ふむふむ、確かにと思いつつ、この勇ましさは少し権力に近い気もする。

 当然ながら、最初のエッセイとはずいぶんと距離のある文章であり、比べることなど到底適わない。

 ただ、結局は地続きである現実はこの田舎に住んでいても感じる。
 例えば「人口減少率」の問題であったり、安保関連の決議に関する議会対応であったりする。

 「表現者」であろうとするならば、自らの立つ場所の位置は明確にしておくべきである。畑の野菜の下に、地雷が埋まっていることもあるかもしれない。