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反省と謝罪の距離感

2015年07月10日 | 雑記帳
 「反省と謝罪」と言えば、今ならまだ、ああアメリカ議会での我が国の首相演説のことかと思い出す人は少なくないだろう。「反省しているが、謝罪はしない」という名言?は、今年の流行語大賞の一つとなるか…。それはともかく、私の頭にはあの有名CMのフレーズが少し重なった。「反省だけなら、サルでもできる


 名コピーライター仲畑貴志の作。確か「チオビタドリンク」。印象的な映像とマッチしていた。この「反省だけなら」に対応するのは、謝罪ではなくきっと「改善」なのだろう。では今回の発言と関係ないか…いや、そうではなくて、目指すところは改善なのだ。改善のために謝罪が必要かどうかということではないか。


 政治的な点については言及するだけの知識や観点がないので、目についた批評から興味を持ったものを拾い上げてみる。『図書』7月号で、作家の高村薫はこう書いた。「言語表現の構造上、これでは反省と謝罪が対立関係もしくは別の範疇に置かれることになり、常識に反する。」と、反省という一般的な語感にこだわる。


 一方、『本』7月号の連載で、平田オリザは「好意的に考えれば」と前置きして、「状態」を重んずる日本文化、日本語の言語構造を取り上げてこう言う。「反省は『状態』であり、謝罪は『動作』『行動』だ」。変わらない限りは、変わらないとだけ言えばいい、という行動様式は確かに自分の中にもある。意図的ではない。


 しかし、首相の発言が意図的でないわけがない。それは、納得できる過半数の日本人と、ポイントとして欲しい隣国の大多数に向けられて発せられる。とすれば、その発言そのものは広義の行動であり、きっと「反省」と「謝罪」の間が広がったということを意味している。その距離感こそが語られなければならない。