すぷりんぐぶろぐ

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言葉の力を取り込むとき

2017年01月11日 | 読書
Volume34

 「人類全てが決めてきたようなそんな言葉の印象は確かに強く、そしてその言葉に飲まれて、レッテルを貼られたように、言葉に操られてしまうとき、言葉というものは圧倒的な暴力でしかないだろう。でも、それでもそうしたものをかいくぐって、その人がその人の見ている生活・人生を通して、言葉にその人だけの姿を見出した時、私は言葉がうつくしいものだと改めて思うのです。」


 若き詩人最果タヒの文章。

 「言葉の力」は、公的な場では肯定的に使われることが多いと思うが、現実には「暴力」であったり「強制力」であったりすることがある。

 それも、世界全体を覆うような影響を与える言葉から、ごく身近な家族や友人の中で交わされる言葉まで、どんな場でもあり得る。

 今日もまた誰かがある言葉に打ちのめされ、涙を流している。
 それは意図的に向けられることも多いが、無意識のうちに発している場合もあるだろう。



 人がそのことを自覚し、一歩慎重になろうとするならば、いくつかの手がある。

 例えば、読む、書くという行為の、滞在時間の長さは十分に役立てることが可能だろう。

 
 自分の「生活・人生」が、読書や書く作業とあざなえるような時間を持てたときに、言葉が「うつくしいもの」として内部に取り込まれていくような感覚を持てるのだと思う。