すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「見」を深く広く、そしてぼんやり

2017年01月03日 | 雑記帳
 書初めも兼ねて毎年「今年の漢字」を考えている。どうするか思案して、読んでいる本をめくりながら、浮かんできたのが「発」と「見」だった。「発見」と熟語にすればいいのだが、それは一字という縛りがあるので駄目。「発」を思いついたのは「発想」の大切さということ。「見」は、それ以前とそれ以後の重要さだ。


 つまり、観察を含めて「よく見る」こと。それから発想を経て「よく考える」こと。今の自分だと「見」の方がふさわしいかなと、そちらを選ぶ。この機会に解字を確認してみると、象形と会意の二つの論があったが、どちらも「目+人」であることには違いない。目があるので当然「みる」という行為が中心になる。



 『字解』には、実に興味深い説明が記してある。

 見るという行為は相手と内面的な交渉をもつという意味で、たとえば森の茂み、川の流れを見ることは、その自然の持つ強い働きを身に移しとる働きであった。


 過多といっていい視覚情報にさらされているからだろうか、見るという行為がだんだん薄く軽くなっているような気がする。それゆえ「しっかり見る」という意味は逆に深く広がっているのかもしれない。細かいところまで見るだけでなく、視点を変換させたり、俯瞰したり、比較要素を持ったり…ひどく多彩だ。


 最終的に「考える」段階までが大事だと思う。もちろん日常の全ての為に適用させるのは無理だが、注意深く見る習慣はボケ防止にもよいはず(笑)。と言いつつ「ぼんやり見る」大事さも強調したい。見るには「対象の魂を呼びこむ」働きがあると考えられていた。意外とぼやっと見ているときに訪れるのではないか。