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まずしっかり見るのだ

2017年01月20日 | 読書
2017読了4
『バカボンのパパと読む「老子」実践編』(ドリアン助川 角川文庫)

 前著『バカボンのパパと読む「老子」』を、そのとんでもない題名に惹かれて、(というより著者ドリアンのファン)手にとったのは2012年。この組み合わせの妙をその時こんなふうに書いた。「バカボンのパパは、ピントをはずしている人でなく、ずっと遠くにピントを合わしている人なのだ。」この続編も楽しかった。



 そうなのだ(と突然バカボンのパパ口調になった)。儒教、論語の孔子思想は、確かに世の中を背負っていく世代には心身の支えになる。それに反する道教の老子の思想は、人為的な仁義を否定し、礼法を排し自然と歩むことを軸とする。齢を重ねてくると、なんとなくそちらに惹かれるのだ、と素直に言ってしまおう。


 生き方とは「ピント」をどこに合わせるかで決まる。別に遠くに合わせることが正しいというわけではない。自分の価値観をどんなふうに定めるか、である。「老子」の第一章に込められていることは、無常観といった要素も非常に強いが、その本質ではないか。視野に入らない世界も取り込み、受け入れる度量がある。

 道の道う可きは、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。
 (道が語りうるなら、それは恒常の道ではない。名が名付けうるのものなら、それは恒常の名ではない。名のないところから天地が現れたのであり、名があって万物は存在し得た。)


 「故に」と続けられる文章で、ものに対する欲望と本質について語られる。いうなれば「目に見えない本質」をどうとらえるか、それが「道(TAO)」そのものだという気がしてくる。しかし結局、人間は「名づけ」から解放されない。言葉を軽んじることではないが、まず現象をしっかり見ろと強調していると思った。