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「真実後」の結末とは

2017年01月09日 | 雑記帳
 衝撃に近い一つのことばと出会った。

 「post-truth

 『考える人』の冬号は、今年になってから購入し少しずつだがずっと読んでいる。

 特集名は「ことばの危機、ことばの未来」となっていて、自分にとっては興味深い文章が多い。
 
 今まで知らずにいたが、イギリスの「オックスフォード英語辞典」が毎年「今年の言葉」を発表しているらしい(去年は11月に発表されていた)。

 2016年の言葉が「post-truth」である。「真実後」と訳されている。

 それは『考える人』の特集の扉でも解説されている。
 例として挙げられていたのは、イギリスのEU離脱問題、そしてアメリカの大統領選挙である。
 
 「post」が表す「後」とは、「特定の概念が重要でなくなった、あるいは不適切になった時」を示している。
 つまり、「真実後」とは、「世論を形成する上で、客観的な事実が重視されず、感情や個人の信念に訴えることの方が影響力を持ってしまう状況」を指しているのだ。



 ジャーナリストの会田弘継は、ドナルド・トランプへ票を投じた白人中産階級は、彼の過激な差別的言辞に「すがりついている」と書いている。
 そして、いわばその「虚言」に裏切られたという憤りが起これば、その反動がどこに向かうかを懸念する。
 EU離脱問題の報道にあっては、離脱派が宣伝したこととは何であったのか、決定後に「虚言」が露呈したことが報道されている。

 そうしたかの国の遠い?出来事まで目を向けなくとも、私たちの周囲にも「真実後」は姿を現し始めているのではないか。

 例えば、政治的な言辞としては、ここ数年繰り返されていることがあると思う。

 客観的なデータが公表されているのに、それに反して「大丈夫」と宣言するようなこと。
 活動そのものに厳とした目的があるのに、経済効果ばかりが優先されて、方向が捻じ曲げられるようなこと。

 より良い生活を願ったり、明るい未来を求めたりすることは人間として当然のことだ。
 しかし、その前に「知る」ことがより大切だ。世の中のこと、自分のこと、相手のこと…。

 それを投げ出してしまえば、社会的なことであれ個人的なことであれ、待っているのは、虚言に振り回されるだけの結末でしかない。