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神様が宿るような…

2017年01月26日 | 雑記帳
 「この頃、ワギャモノさ、マブって言ってもわがらね。『セッピ』と言わねばな」と、母の一年祭で一緒になった従弟が語った。そうかもしれんなあ。マブ自体は時代変化に関わりなく、毎冬見られるし、通常の語彙としてまだ通用すると思っていたが、進行は案外早いようだ。ボッコ、シガ、ホドユギあたりも危険か。


 念のため開いてみた『秋田のことば』で、面白い誤植?を発見。「まぶ(まんぶ)」の箇所で、「雪の吹き溜まり」と説明し、セッピを「雪屁」と記してある。しかも二か所。正式には「雪庇」。「庇(ひさし)」の形状から名付けられたはずだ。それを「屁」とは…。そのイメージはちょっと下品だし、屁みたいなものでもない。


 
 冬に関する語彙で思い出したのは、先日乗った代行運転の方との会話。「降ってきたんしなぁ」と始まり、昔の除雪、朝の様子など話しているうちに、「あれ、あれはなんという名前だっけ」ともはや定番の物忘れモードの口癖。私より十歳程度年下の運転手の方も、形状は思い浮かぶが「あれ、あれええ」と悩んでいる。


 「藁で編んだやつで、丸くて、道つけるときに…、ヘドロンコでなくて…」結局、翌朝突然思い出した「フミダラ」。正確には「踏俵(フミダワラ)」。除雪などできなかった小屋への通路は、よくそれを使って踏まされていた。ちなみに、踏俵は広辞苑に「相撲用語」としか載っていない。しかし日本国語大辞典には在る。


 『秋田のことば』にはフミダラの見出しはないが、「藁靴いろいろ」というコラムに「ふみだら」として「雪深い地方でこれを履いて新雪を踏み固めた」とある。ふと『わらぐつの中の神様』という物語を思い出す。神様が宿るモノがだんだん少なくなり、彷徨い始めたので荒れた冬空になるんだと勝手な妄想をしてしまう。